序節 マヤとライナ 三 族交儀

 族交儀はマヤが親那を訪れた翌日に、父殿の九虞という場所で行われた。


 九虞は石造りの儀式用建造物で、正方形の一辺の中央に大皇と皇妃が御座する座台が据えられていて、台座の背後には一際大きな柱が聳立していた。それはまるで大皇を前にした人を威圧するかのように雄々しかった。そこから正面の左右四本ずつ、これまた巨大な柱が峭立していて、その中央には参謁のための道が敷かれていた。九虞は親那を代表する大廈である。その重厚さにマヤは圧巻の一言であった。しかし、それ以上にマヤを怯えさせたのは内装の彩色である。マヤは初めて九虞に足を踏み入れた時、この世には実にも恐ろしげな空間があるのかと怯えてしまった程だ。


 アグリでは国花である『トヨテ』の赤と白を丁度良く混ぜた色、それと雲、霧、雪の白色を基調にした色が今昔を問わず美とされていた。マヤも親那を訪れた時はその色の上衣を纏っていた。マヤのお気に入りの一つである。見ているだけで風にそよぐトヨテの様にふわっとした心地になりそうなそんな色だ。


だが、ここはどうだ。黒、赤、金。マヤは闇、血、黄金を連想した……なんと不気味でなんと俗的な色なのだろうか。それも恥じる事無く堂々と誇っている。後で訊けば、この三色が親那の国色であるというのだ。私はアグリとは違う大地に立っているのではないか。マヤはそう思えて仕方なかった。


 だが、これが現実。そう自分に言い聞かせて儀式に臨んだ。マヤはアグリから着てきた服を脱いで親那の礼服に着替える。儀式は皇国の習わしで行われることになっており、アグリの服を脱いで皇国の礼服に着替えなければならないのだ。それは親那三色を基調とした親那軍様式の礼服で、体にぴったりと合いその外形が露わになってしまう。そのため、ゆったりとした服しか着たことのないマヤは、恥ずかしくて直ぐにでも脱いでしまいたい気分だった。ただ、アグリで採寸した甲斐があって服の作りは無駄や苦を感じる事は無かった。


 マヤは着替えを終え、化粧を済ませると、間断を挟まず儀式に臨むこととなった。着慣れない服をきたまま、ぎこちなく歩くマヤはライナの先導で九虞に敷かれた分厚い絨毯の上を淑やかに歩む。君前には帝室、皇国諸侯の面々がずらりと並び、幾多の視線がマヤに突き刺さり、緊張の余り手が小さく震えて、これを抑えようと必死に努めた。


 マヤは通路の央で台座の方へ向きを変え、諸侯に背を向けながら九段ある階段を上り、その左側の椅子の前に立った。そこから見下ろした光景は、万国諸侯の服装が地面を彩りとても鮮やかだった。だが、これだけの人がいてもこの晴れの舞台にライナ以外のアグリ人が一人も居ないのだ。それを思うと悲しさと寂しさで目の端に涙が浮かんできた。


 本来であれば、王、王妃、王太子の誰か一人はここに居なければならないのだが、生母は病に斃れて既に亡く、皇国軍の砲撃によって父の命は奪われ、義母と義弟は負傷のため病床から離れられず、前線へ視察に行った王太子の兄は行方知れずとなっていた。昨日、マヤを出迎えたアグリの最高外交官『御宇使節統官』、略して使統は同刻に行われている親那とアグリの停戦条約調印式に臨んでいた。この条約により、アグリと皇国の主従関係が再び結ばれる訳だが、それは領土の割譲とマヤの引き渡しが条件として記されており、報道各紙では「結納条約」などと揶揄していた。


 悲しいかな。アグリが小国であるが故に言われなき理由で領土を奪われ、自身は人身御供のような扱いを受けることとなった。そして悔しかった。何か意地を張ってやらないと気が済まない気持ちだった。ならば、皇帝の妃になるのならばこれを機会とし、大皇と皇民に気に入られてアグリの地位を保障させよう。マヤは汽車の中でそう誓っていたのだ。二度とアグリの人々に涙は流させまいと。


 マヤは唇を締めて顔を上げる。


 祭儀用の声楽曲の音が九虞内に響く。考陽帝の御出座しである。マヤは思う。見据えてやる、と。これから私の夫となる者の顔を。


 煌びやかな儀装を纏った禁軍の嚮導を受けている、皇国軍の最上位を表す『最高将帥』の章が入った織物を纏う男。それを見たマヤは……大陸に唯一君臨する、皇帝よりも上位の大皇を戴く大帝国親那の君主を目にしたマヤは、一瞬それを見紛ったのかと思った。


 台座の前を歩む彼はマヤより少し高い位の背丈で色白の肌、櫛が良く通りそうな髪を前と後ろで切り揃えていて、体躯は少し痩せていて少年の域から出ていない。軍人のような武骨さは一切見当たらなかった。


『まるで女子』


 マヤが一瞬そう思ったのも不思議ではない。皇帝はマヤより二歳ばかり歳上ではあるが、それでも男子らしさを持っている歳ではある。それはマヤの勝手な想像が含まれてはいたが、例えそれ抜きにしても、屈強で鳴らした皇国軍人とは程遠い容姿だった。


 皇帝がマヤの近くまで来るとマヤは、はっとして急いで最敬礼した。それは儀礼を忘れていたからではない。何か背筋にぞくりとするものを感じたからだ。頭を垂れる直前に一瞬だけ覗くことができた彼の目。良く開いていて幼さを感じたが……達観したかのように据わっているのと、驚くほど生気が感じられないまるで死者のような無機質さがあったのだ。


 皇帝がマヤの横に着くと、結婚を認める旨を記した文章が読み上げられた。読み上げられた書簡はライナと大皇の傍らに立つ初老の男とで交換が行われた。この儀式は婚約した二人の親族が一同に会し、婚姻に関する取り決めを文章で約束するもので、親那を中心とした文化圏の習わしである。


 マヤは儀式が終わるまでは、特に難しいことはしなくてよいので、諸侯の万雷の万歳を以てこの族交儀は恙なく閉じられた。だが、何だろうか……変に気を抜かれた感じがした。これは安堵なのか。それとも別の何かなのか。マヤは今まで感じていた不安とは別に、何か胸がざわつく感じを覚えていた。

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