序節 マヤとライナ 二 親那
河とは土の合間を流れる水によって成り、歴史とは時の流れを生きる人によって生ずる。
土は河に動じないように、時もまた人によって動じない。しかし、河は河として視覚することができるが、時は時として直視する事はできないものであった。だが、人の工夫とは、成せば成るとでも言おうか、これを可能にしてまった。その方法とは、まず自然の変化から間接的に時を得てそれを基準とし、更に集積するのと同時に可視可能な文字にそれらを移転した。これにより時の視覚に成功したのである。
これを約して暦と呼ぶ。
当然の話ではあるが、暦は国家、民族、都市、宗教という区分によって相違することが多々ある。そもそもとして暦を持たない者等もいる。しかし、これから物語ろうというのに、時の尺度となる暦が無くて何とするのか。故に、ここではこの大陸で最も採用されている暦であり、この大陸でもっとも強い国家が頒布した暦である『紀暦』を用いることとする。即ち八日一錬、四錬一号、十六ヶ号一役。閏は無いが、特定の周役に儀式が設けられており、それに応じて一役の日数が微増する。これは練兵の期間用にと編纂された暦であった。
時は紀暦一六九三役。
民族文化の割拠する大陸、その統一を果たした一つ目の大国家にして皇国を号する『親那』は依然、その強大な軍事と経済を脊柱にしつつ万国の宗主として君臨していた。
親那は如何様な国家であるのか。その建国譚は有史としては存在していない。しかし口伝として伝えらてきた幾つかの物語を後世、文字にして綴った文献が残っていた。貴重な伝承ではあるものの、何れのものも神話や想像の域を出ないため、史料ではないとして邪視の対象となっている。
然れども、この国の国是は神話と一致しており、その整合は現在まで引き継がれている。
此の国は、当然ながら人が治めている。しかし、政治が発達するにつれて、公平や公正であろうとする治世の手段を生み出していった。即ち、それは無機質な基準、である。
政の誕生は、誰が言ったか知れぬが、人が一人から二人になった瞬間であるらしい。一人から二人となれば、交渉、折衷、功罪、道徳など、一人では成立しない事柄が生起する。これらは須らく他者との比較という概念を含有している。これを宜しく平衡、均衡させることこそ政と、ある者は述べた。
政は当然ながら人が執るものであるがその場合、理性に依拠することが望ましい。しかし、同時に人は感情に則する存在でもあり、それは思想、親族、怨恨、傾慕と様々である。しかし、その中で甚だいただけないとされているが私利である。
均衡の基である公平公正が私利によって壊死したとき、人は鬱屈し、それが多数に及んで形になれば、即ちそれは乱である。これを防腐するため、人では無い、人以外が政を治める手法が生み出され、それこそが無機質な基準である。
それの代名的な存在こそ、法である。
法規を以て組織を治める手法は有用と認められ、この大陸で広く用いられてきた。親那とてその例に漏れない。
しかし親那は、法以外の基準で、それは法以上の高位な存在としてある概念を頂いていた。それこそが思想である。
親那は軍事こそ国家の根幹という一つの御旗を掲げ、これを合理と融合し、思想化させ、これを軍と政の根本とすることで一大強国としての体制を堅持してきたのである。これを先師思想といい、国家、国民、軍隊、帝室と並ぶ、親那の根幹とされてきた。云わば親那とは、この大陸に於ける最古の思想国家で、掲げた先師主義は大陸制覇の原動になったのが歴史の通説である。
親那は『大皇』と称する帝王を戴いた君主制国家でもある。親那との外交において、当然ながら帝室との姻戚が大事となってくる。大陸が幾つもの国に分かたれていた頃、親那と国境を接する国家は縁を結ばんと躍起になった。星の数程の息男、息女が外交の産物として帝室の籍に加えられ帝胤の脈を繋いできたのである。
この歴史の性に従うように、親那にまた、一人の少女が嫁入りすることとなった。彼女の名はアグリ・ヤショ・マヤ。親那の属国である王権国家アグリの王女である。
彼女の夫となる男は帝国『親那』を統べる君主『大皇』である。大皇は即位と同時に定められる役号『考威』と、列祖に奉った供物『陽光』の一字ずつを帝の上に戴いて、自らを『孝陽帝』と称号していた。親那ではこの自称した号が、そのままま諡号となるのである。
孝陽帝は弱冠して間もない若々しい帝王であった。対するマヤの齢は十二役。互いに若くはあるが縁を結ぶに珍しくない年齢ではある。
ただ、婚姻といっても帝室の仕来りにより、明日明後日には夫婦、という訳では無い。その前に幾つかの儀式を経る必要があった。それが行われて初めて夫婦と相成るのだ。
その儀式が終わるまでは、皇帝といえども他氏族の王である摩耶には触れるのを禁じられていた。そういう仕来りであっだ。冗長であるが、もしかしたら別の胤を宿しているかもしれない恐れからこのような期間が設けられたと、ある合理主義者は解釈している。何れにしろマヤはこの儀式のために、生まれ育った国を離れ、帝室の御殿と帝国政治機能の中枢がある首府『神城』まで、家臣であるライナという老婆ただ一人を伴っての入洛である。
神城は広大な平原に流れる川を跨ぐ形で円形に広がっており、幾重にも渡る城壁に囲まれた超弩級の城郭都市である。弓矢の時代に幾度か攻城を受けたものの、攻略されたという記録は存在しておらず、どうやら籠城時に抜群の防御力を発揮したようである。だが、大砲の発達した昨今、城壁は無用の長物と化し、線路を通すため所々に孔が開けられており、時代に取り残された須賀からからは最早、過去の威容は望めなかった。
マヤを乗せた汽車もこの孔の一つを潜って神城に入った。汽車は町の中を通って神城の中央駅まで向かった。だが、なかなか到着しない。外角から中央までの距離がマヤの想像を超えていたのだ。一体どれだけ大きい都市なのか、とマヤは肝を潰した。
この上驚きなのは豪奢な帝室専用の駅があることだった。アグリにも鉄道はあるが、主要都市を繋ぐためのものと、親那が出資したて敷設された鉱石運搬を主用とする鉄道のみである。駅の数も両手で数えて足りる程度だった。
それ故か、駅舎が落成するというのはアグリでは大きな出来事であったため、落成式にはわざわざ王族が出向いて祝いの辞を述べる程であった。アグリにとってみれば安く無い予算を割いたことを意味していた。だが、アグリ全ての駅舎に費やされた予算を以てしても、この豪奢な駅舎の建造費には遠く及ばないであろう。そう確信できた。
帝室専用駅は全体を覆う屋根が付いていて、歩廊の石畳は光を反射するほど磨かれ、幾つもの瓦斯灯が辺りを明々と照らしていて、全体が皇国を象徴する色である黒、赤、金を基調とした装飾が惜しみなく施されていた。絢爛豪華にして辺りを払う威風があった。しかもこれを帝室のみが利用するというのだから唖然としてしまう。
帝威を示すように堂々と徐行する汽車の中、緞帳から畏れるように外を窺っていたマヤはアグリという国がどれだけ小さいのかを思い知らされた気持ちであった。
汽車は旅の疲れに嘆息するように蒸気を吐き出し、その鉄の体躯を駅舎の中に納めきった。そこから衣装を整えておいたマヤとライナは、案内役であるアグリ使節館の指示を待ってから歩廊へと降り立った。
この一連の儀式に馴染みが無いマヤは、どう挙動を取っていいか解らなかったが、彼女の斜め後ろで俯いて目を伏せているライナが小声でこれを助けた。どうにか事なきを得ると、親那の帝宮を司る宮近衛の長が幾名かの部下と共に軍式の敬礼を整然とこなし、そしてマヤを嚮導した。
導かれるままに絢爛な敷物を踏み歩くと、王侯の者等はその道脇へ並んで順々にマヤを迎えた。最初の者は、親那の高級軍人、官吏ら数名で、彼はマヤに拝跪して長旅の労苦を労った。次に控えるのは大陸北西の筆頭格で、同時に親那の軍事階級も保有している事から、公職と王侯を兼ねる者として公卿と呼称されている大雄『烏汰雅』武侯邦の君主。大陸広しといえどもこの爵邑に並ぶ者は少ない。烏汰雅侯の後に並ぶ者等は、多くはアグリと親しい邦で烏汰雅の西に位置する北域の諸侯の公侯、または使節官であった。
集まった面々に一通りの挨拶を終えたマヤは、宮近衛の案内で親那中央に御座する親那帝室の宮殿『帥々王々宮』へと向かった。帝室の宮殿はその後宮と皇帝の輔弼機関である伺候府が置かれた親殿、そして親殿を同心円で拡がっている子殿とに分かれていた。子殿には帝室を警衛する禁軍衛府や伺候府に準ずる帝室に関連する部局、そして帝室専用駅も子殿の施設に含まれている。子殿は親殿を囲むようして建っているのでこう呼ばれていた。
更に親殿はというと、帝室の儀式や公務に関連する施設が入る父殿、寝食や帝宮など生活に関わる母殿に分かれていた。母殿に入れる者は限られていて、帝族、伺候、女官以外の者が許可無く出入りすれば処罰の対象となった。これらはの区画は全て城壁によって隔てられており、特に子殿と市街を隔てる城壁は巨大であった。
この規模の宮殿は他に無く、親那の威信であり続けていた。だが、国家の威信というのは宮殿の大きさで決まるものでは無い。国力があってこそ、その威信が保たれるのであり、国力も無いのにその国の元首が巨大な宮殿を作れば、それは威信ではなく虚勢である。即ち帝室の威信とは皇国『親那』の国力そのものを表したのであった。
だが、時勢は帝室の威信に靡かなかった。
紀暦一九六一役。二月八錬。親那に従属していた一部の諸国が反旗を翻したのである。
二百役以上続いた一国支配の均衡を崩壊へと導こうとする反乱諸国に対し、親那が軍隊を派して鎮圧を計ったのは当然の仕儀である。だが、派遣された鎮圧軍は三度の会戦で壊滅的な打撃を受け、反乱諸国に気勢をあげさせる惨憺たる結果を招いてしまう。これを受けて皇国は先の倍の軍勢を派遣する。だが戦線は膠着。両者が睨み合う状態が一役以上続いていた。
戦況は未だ確定していない。だがしかし、我が世を誇った親那軍が、寡勢の反乱軍に撃破されたのだ。これは大陸統一以来の大事変となった。
親那は大陸西に広がる大平原中央に位置して、その地勢的状況から幾度もの侵略を受けてきた。だが、全ておいて軍事力の発展と戦争の勝利を最優先してきた先師思想を国是にすることによって、親那は諸国の侵攻を撥ね退けて大陸制覇を成し遂げたのであった。だが今、その最強神話が崩れつつあった。また、不確実な情報ではあるが、反乱軍との連帯を匂わせ親那を揺さぶる諸侯も出てきていると巷で話題を呼んでおり、今の親那はあちらこちらに綻びが生じている有様だ。
だがそれでも尚、皇国へ変わらぬ忠誠を尽くす国がある。マヤの祖国、王国『アグリ』である。王国アグリは皇国に隣接しているにも関わらず、他の皇国隣接諸国とは違い王権を保持している珍しい国である。王権を保持する従属国は役務として軍役のみが課せられており、諸侯と比較して政治的自由が保障されていた。
アグリは従属国という扱いであるが、諸侯とは親那帝臣下の領土、との説明の方が近い。この諸侯の格式を持つ地域には軍役に加えて税役が課されているのである。摩耶を迎えた『烏汰雅』も、アグリより強大であるが格式は諸侯である。
しかし、何故アグリには広い自治権を有する王権が許されているのだろうか。親那の封侯史に詳しいある博士は、地図を見よ、と言う。それというのもアグリは大陸の中央に脈打つ二大山脈の狭間に位置する小国家なのだ。領土の七割が山地であり、牧草地や耕作可能な土地が他国に比べて著しく狭い。恵まれているといえば、幾つかの鉱山を有しており、それを皇国の融資で開発していることである。これらの鉱石資源を諸国へ輸出することによって外貨を得ていた。
しかし如何せん、領土が小さく山に囲まれているため交易には適さない国なのだ。よって農業、商業、軍事の全てが親那に比べて劣っていて、皇国にとってみれば多少の裁量を認めたところで己の覇業に支障をきたす可能性は皆無に等しいとの評価をしていた。つまりアグリとは弱小であるが故に王権を許された国であるのだ。
また別の学者はこう主張している。アグリという国は古く、親那の建国時から存在している。親那の建国当時、その領土とアグリの領土を比較してみても、大差があるとは言えない。しかし、この両国は近隣していたにも関わらず、珍しいことに相争うことがなかった。これはアグリが弱小であるという理由だけでは説明がつなかい。よって、アグリが王権を維持できた理由は地勢的な見地と、当時のアグリは勇猛な夷狄とされていたこと。この二つの理由により長い間アグリは、物理的分断と精神的な隔離を受けていたため、両国は干戈を交えるようなことは殆ど無かったというのだ。
何時頃からか親那が大国となったために、それと国境の半分を接するアグリとしては何時までも無視を決め込む訳にもいかず、従属する代わりとして王という地位を得て、親那に忠誠を誓った。以後、親那は幾年、幾度の戦火戦乱を潜って大陸に覇を唱えたのである。故にアグリは他国に併合も侵略も受けずに不断の歴史を紡ぐことができた、と、そういう解釈した。
何れにしても、アグリと親那は穏やかな関係から緊密な関係へと発展していったことに異論は無かった。
だが、紀暦一九六二役。突如として皇国軍がアグリ国境を越えたのである。
それはあまりに突然だった。警告も前兆も協議も……前触れに類するその一切が無かった。
この事実に誰もが己が耳を疑うしか無かった。
その声明はについてはこうである。
『アグリ王国が反乱諸国鎮圧の事案において利敵行為を行った』
具体的には資金提供、皇国側軍事情報の漏洩の二つ。この見返りとして反乱軍が皇国を打倒した暁には今の数倍の国土が得られる、という密約が交わされていたという。
勿論、これはアグリにとって寝耳に水であった。何を根拠にこのような偽りを羅列してアグリを攻撃するのか……アグリの者は勿論、親那中枢の者ら以外は誰もが理解できなかった。そのため皇国諸国民の中ですら、この懲罰に疑問の声が上がるが、皇国はこれ以上の情報を明らかにすることはなかった。
親那の征討軍は発せられると直ちにアグリへと踏み入った。アグリの首都が外寇に侵されるのは史上初で、まさかそれが宗主国であるとは誰が想像したであろうか。
皇国の侵攻後、抵抗する術が無いアグリは直ちに降伏した。その受諾条件として、領土割譲による賠償と王族一人を帝室へ入れることを要求され、有無を言えないアグリはこれを呑むより他なかった。ただ、王権は維持されることとなり、これは不幸中の幸いとなった。それでも、大国による一方的な蹂躙はアグリの王国民に深い劣等感を植え付け、誰しもが歯ぎしりして皇国の横暴に怨緒禁め難い感情を抱いたのである。
割譲された領土は国境を接する烏汰雅侯によって委任統治され、マヤが帝室に入ることとなった。同時に戦後処理が勧められ、アグリ侵攻から一役と半役を経てようやく停戦条約締結となった。条約の締結は親那帝とマヤの婚姻と同時に行われることとなっていた。
この祝事について皇国の新聞をはじめとする情報媒体は、こぞってこれを特報として扱った。だがしかし、余程の皇帝側論調誌で無い限り、その記事は言寿とは程遠い内容で、そもそも祝事であることに疑義を呈する媒体もあった。しかしこのような姿勢をとったのは報道側だけではない。皇国民の中ですら冷めた見方が大勢であったのだ。
その見方とは以下のような内容が、多少の差異はあれども大筋となっていた。即ち、皇帝がマヤの姫をアグリから略奪して自分の妻にすることで、自身の権威と権力を世に知らしめたい、と。
このような噂が醸成されたのには幾つか理由があったが、その発端は孝陽帝が若年であることだ。大皇は十四歳で知識と経験が浅く、外見も体の線が細く、前々からどことなく頼りない雰囲気があると皇国民や諸侯は感じていた。その矢先に反乱が勃発して親那の脆弱さを世に知らしめた。これが大皇への印象が裏打ちされた形となり、大皇への不安が更に高まることとなる。そこで大皇は弱弱しい印象を払拭したいがために、今回の強引な婚姻に及んだのではないのか、と。そういう論評を掲げる者が続々と出てきて、憶測が更なる憶測を呼ぶこととなり、ある事ない事が囁かれ、様々な意味において市井の間は婚姻の話で持ちきりとなった。
そんな祝福とは程遠い状況に置かれ、影ではあらぬ事が囁かれているとは露程もしらないマヤは、婚姻までに行う初めの儀式である族交儀に臨む。これは、親族同士が交わって婚姻することを取り交わす儀式である。だが、神城にマヤの親族は居ないのでそれは形だけのものとなるであろう。
それであっても覇者の儀式である。マヤが経験したことの無い程、絢爛豪華な式典となるであろう。ライナはそう言って、気持を塞いでいるマヤの元気を少しでも取り戻そうと励ました。
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