3
通常、人はバイポーラの泉へは入れない。
その水滴のひとつでも、皮膚を酸のように溶かしてしまう、堅密な極彩プラズマの塊なのだから。
だとすると、その泉の中から出てきたこの青年は果たして、本当に人なのだろうか――?
「あなた、本当に人間――?」
じろりと頭からそのつま先までを観察してみる。堅密さを失った極彩プラズマは空気の中であっという間に蒸発して、いま青年はこざっぱりと乾いた髪や衣服に満足げだった。そのうす茶の目が、ふふんと得意げに笑みの形で私を見る。
「僕はシン。僕が人間かどうかについてだけど、それは各人の定義によると思う」
「は……なに言ってるの?」
「シン」
憮然と自らの名を繰り返す相手に、携帯電話をミシリと軋むまで握りしめた。
ありえない。
人さまの家の泉から勝手に不法侵入してきて、この偉そうな言いぐさは何なのだろう。
(落ち着こう、とりあえず。そう、こいつは人間じゃないかもしれない)
だとすれば何だろう。
バイポーラの泉の中で発生したバグか、ウィルスか、はたまた幽霊か――。
そんなものの存在を寡聞にして知らないが、やはりここは専門家に任せるしかないようだ。私が「検閲課」の短縮番号を押そうとするのを見て、シンは慌てふためいた。
「ちょ、ちょっと待って! 僕らは話し合えると思う――!」
「なにを」
プルルル、と耳に当てた携帯から呼び出し音が響いている。夜遅いせいもあり、中々つながらなくて私は舌打った。
「僕はシン! 自己紹介もしたよ。怪しいものじゃないって……っ」
「はぁ? 十分あやし……ちょ、こっち来ないでよ!」
「その電話止めて!」
携帯を取り上げようと近寄ってくるシンから、私はなんとか携帯だけを手を伸ばして遠ざける。
(早く――繋がれ!)
プルルル、と鳴るコール音が途切れた。「もしもし?」と女性のオペレーターの声が聞こえて、私はシンの手を払いのけながらなんとかそれに答えようとする。
「も、もしも、助けて――ちょ、やめてよ!」
「その電話、止めてってば!」
シンはしつこかった。子供のように携帯の取り合いになって、私がまともにオペレーターに答えられないでいる間に電話は切れてしまった。悪戯電話と勘違いされたようだ。
「くっ……」
私がもう一度かけ直そうとするのを、シンが携帯を奪おうと邪魔してくる。
「何なの!? 通報されたら困るわけ!?」
そうして押し合いへしあいしていると、突然部屋のドアが外から大きな音をたてて叩かれた。
「おいっ、大丈夫か!?」
隣室のカイだ。
騒ぎを聞きつけ来てくれたに違いない。
私はシンをなんとか振り払ってドアを開けた。
「カイ!」
パジャマ姿のカイは部屋を見て目を丸くした。
「わっ! 誰だそいつ」
「た、たすけんぶっ」
後ろから追いついてきたシンが、私の口を無理やりふさいでくる。シンは怪訝な顔のカイをまじまじ見た後、にっこり笑って言った。
「君が『カイ』かぁ。だめだよ、女の子を泣かせちゃ」
「っ!」
私が勢いよく睨みつけた先でシンは、小首をかしげて小さな声で聞いてくる。
「もう電話しない? しないなら黙ってるけど」
「いったい何の話だ? アイカ、そいつは――?」
カイは怪訝そうだった。見慣れぬシンのことを判じかねているようだ。
「ん~~っ! んん~~~~っ!!」
塞がれた口のまま必死にカイへ事情を伝えようとするが、鈍感なカイは気づかない。私の口を抑え込んでいたシンが、やれやれとため息をついた。
「カイ君。君は鈍いんだねぇ。そんなだから彼女は泣いて――あ痛っ」
私が勢いよく踏みつけた足にシンは一瞬だけ声をつまらせたが、なおも口を開こうとするので仕方なく必死に頷いた。
(しない、もう通報しないから!)
ひとまず戦略的撤退だ。上下に激しく頷く私を見て、満足そうにシンは口から手を放す。
ふぅふぅ息をつく涙目の私と真横に並んだ笑顔のシンを、カイは唖然とした表情で交互に見ていた。
「なんか……よくわかんないけど、アイカ大丈夫?」
「だ、大丈夫。こいつはなんでもないから」
大丈夫、と繰り返す私を心配そうに見ながらも、カイはしぶしぶ自室へ引き上げていく。そういうところが鈍いのだ、と隣室のドアが閉まるのを見送っていた私にシンが「なるほど、鈍いねぇ」と笑いかけてきていた。むかつく。
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