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ほんの2時間前のことだ。それまでの私は、最低で最悪ながらもかわり映えのしない日常の中にいたのに、どうしてこんなことになったのだろう。
私ことアイカ・
この辺りの人たちがみんなそうであるように、うす暗い地下の集合住宅に自室をひとつ持ち、そこでひとり暮らしをしている。
仕事は「絵の発掘作業」。これも近辺ではありふれた職業だ。
自室に「バイポーラの泉」をひとつ持ち、その奥から「絵」を発掘する。
泉から拾い上げた絵は「検閲課」へ持って行けば、ある程度のお金で買い取ってもらえる。もちろん、発掘すると言っても泉の中へ入ることはできないので、特殊な手袋をはめ、浮き上がってきた絵を拾える範囲で取る作業のことだ。
「検閲課」へ持って行った絵はこの町のエネルギーとして使われるほか、高額な「物語」として本にされることもあると聞く。
いずれにしろ、私の仕事は絵を採掘するまでだ。
その後のことは「検閲課」の役人か、上級職である研究者の仕事になる。
だから私は日々の糧として、泉から絵を拾い上げる以上のことにあまり関心がない。絵の採掘作業に関わる人たちのほとんどが、私と同じように考えているはずだ。
(毎日の生活に手いっぱいで、それどころじゃないし)
加えて最悪なことに、近ごろ泉から採れる絵の採掘量が減ってきていた。
これは私の家だけではない。この町全員の家の、バイポーラの泉がそうであるらしい。ゆゆしき事態だ。
絵が取れなくなれば、収入が減るので生活が苦しくなる。町のエネルギーも枯渇して、節電やら節制やら、とにかく様々な面で不便になってくる。
さらに良くないのは、絵の採掘を生業とする者たちは経済的に貧しい層だということだ。つまり私もそうだが、困窮きわまり生活が非常に苦しくなっている。明日のご飯にも困るような状態で、それでも私は絵を取り続けるしかない。少しでもたくさんの絵を取り、なんとか明日のパン代を稼がなければならない。運が良ければ高額な絵が流れてきて、少しはまともな額になるかもしれない。そうして必死に泉を覗き続けているうちに、私は禁則事項をいつの間にか破っていた。
べつに忘れていたわけではないが、まぁ良いかと思ったのだ。
(バイポーラの泉を、連続で1時間以上覗いてはならない――)
絵の採掘に関して、「検閲課」から禁止されている項目のひとつだ。
なにしろ泉自体が危険なので(泉の成分は人体を溶かしてしまう有害物質だ)使うにあたりいくつかの制限が課されている。そのうちのひとつを、私は故意に破った。数ある禁則事項のなかでたいしたことがないものだと思っていたのだ。
(だって、お向かいのシモンさんは3時間以上泉を覗きこんだことがあるって言ってたし。隣の部屋のカイだって――)
きっと大丈夫。
すこしくらい、時間をオーバーしたって。
私はかれこれ1時間以上床に座り続けている。目の前には淡いコバルトブルーの、小さなバイポーラの泉がゆらゆら光りかがやいていた。美しい水面の揺れの奥には、けれどひとつも絵が浮かんでくる気配がない。
ぼんやりと見つめていた泉の青さが、気づくと涙で滲みはじめていた。
その時の私が考えていたのはカイのことだった。
隣の部屋に住むカイは私の幼なじみで、私の片想いの相手でもあり、そして来週には遠くへ引っ越してしまうことが決まっていた。このうす暗い地下の集合住宅から、カイは陽のあたる地上へ出て役人になるのだと言っていた。
「カイの馬鹿――」
どうしてもっと早くに教えてくれなかったのか。
カイは私と同じで、これまで絵の発掘作業で生活してきていた。
そこから地上へ出るということは大出世であり、親友なら喜ぶべきだ。だけど。
(カイとは、もう一生会えないかも……)
考えたら涙が止まらなくなった。頬から顎へ伝った滴が、泉の中へ落ちていく。
地上は遠い。地下とでは身分の差がある。
本来なら地下の絵の発掘作業から、地上の役人へなんて一生かかっても転身できない。カイがどういう方法を使ったのか知らないが、どうしてそれを私に教えてくれなかったのか。私が怒るとでも思ったのだろうか。私だって地上へ行けるものなら行ってみたい。けれど無理ならそれでいい。カイを責めているわけではない。ただ――。
「遠くへ行くなら、もっと早くに教えてくれたって……」
ぐすり、と鼻をすすると涙がまた泉へぽたぽた落ちた。
透明な水滴はコバルトブルーの水面に吸い込まれると、堅密なプラズマの波に溶けることなく水滴の形のままで宝石のように沈んでいく。悲しみを集めた透明な結晶が落ちていくのを私は見送った。バイポーラの泉に不純物を混ぜるのは良くなかったかもしれない。けれど禁則事項にそんなこと書かれてなかったし、こんな時くらい多少神さまは見逃してくれるはずだ。私は涙をぬぐいもせず、泉の底を覗き続けていた。
「カイの馬鹿」
そうして罵りながら絵を待つこと数時間、泉の奥から大きな影が浮き上がってきた。
絵だ。
ようやくかと、鼻をすすりながら手袋をはめた手を泉の中へそっと入れる。泉の成分が皮膚に付かないよう、慎重に絵を引き上げなければならない。
こちらへ浮き上がってくる平面の絵は大きかった。かなりの上物だ。通常はメモ帳サイズのものが多いが、これはA4ノートサイズ、いやそれよりも大きい。
私はしだいに近づいてくる絵影にぎょっとした。こんなに大きな絵は見たことがない。その細部まではまだ遠くて見えないが、巻物のようにどこまでも横に伸びているように見える。
「な、なに……なんなのこれ――」
見たことのない大物にかなり腰が引けたが、これはなんとしても引き上げなければならない。この法外なサイズの絵が高値で売れれば、あるいはひょっとして、万にひとつの可能性で私も地上へ行く手立てを見つけられるかもしれない。
息を吸い込む。
しだいに近づいてくる絵を引き上げようと、両手をそっと泉へ深く差し入れたとき――。
「きゃっ!?」
ばしゃり、と泉の中から何かが現れた。
それは信じられないことに、人の手だった。むき出しの人の手――それが、悲鳴をあげる私の前にもうひとつ現れる。右手と左手だ。水面から突き出すようにして。
「てっ……手!?」
ありえない。人がバイポーラの泉の中に入れば、溶けてしまうのだ。
硬直する私の片手――泉の中へ差し入れたそれを、現れたその手がぎゅっと掴んできた。
「ひっ……うわぎゃ―――――――っ!?」
思わず振り払い這うように後退する。採掘するはずだった上物の絵のことはきれいさっぱりと忘れていた。まったくそれどころではない。
泉から離れた壁際まで後退した目の前で、水面から突き出した両手が泉のへりをつかむ。
大きな水音をたてて、そうして人の頭が水滴を払いながら現れた。
唖然と見ていた私は心臓が止まるかと思った。
(ま、まさかそんな――人が)
ぶるり、と首を振り現れたのはまだ若い青年だった。
頭の次は首、肩、胸、腰、そして両足を引き上げて、「よいしょっと」と何でもないように泉から五体満足で出てくる。どこも溶けている様子はない。
まるで普通の水の中から出てくるように、現れた青年は張り付いた白シャツやら濡れた髪の毛を気にしているようだった。よくみれば磨かれた高そうな革靴を履いている。
痩せ細った青年だった。歳はカイや私と同じ十八歳くらいに見える。肩のあたりで切りそろえられた髪は珍しい水色だし、肌の色はびっくりするくらい青白い。優しげな印象の顔立ちが、不思議そうにぐるりを見回して、
「えっと――、……お」
うす茶の目が私を見つけて瞬いた。睫はけぶるように長い。
整った顔がふんわりと微笑んで、こちらへ数歩近づいてくる。
「はじめまして?」と、友好的に差し出された手から私は必死の思いで這うように逃れた。
「な、な、ななに誰、ていうかどうして、こっち来ないでよ――っ!?」
「ははは、鬼ごっこ? 君いいね、はははっ」
「ちょ、来ないで! こっち来んな――っ!」
そうして部屋を追いかけまわされ、ぐるぐる三周した私が怒りと混乱から相手を蹴飛ばして、お互いの動きがようやく止まった。腹にしっかり入ったドロップキックにうめき倒れる青年から少し離れたところで、私は息を整えようやく落ち着いてきた。
(よし。あとはこいつをこのまま泉の中へ蹴り転がすだけだわ)
もともと泉の中にいたのだから、元に戻して何もなかったことにしよう、そうだそれがいい。私は少しだけ錯乱していたかもれしれない。
「ぅ、痛い! ちょ、ちょっとっ――」
有無をいわさず倒れている青年を無理やり泉のそばまで蹴り転がしていく。
(私は何も見なかった、私は何も見なかった……)
これは夢だ、そうに違いない。
泉のふちまで転がされてきた青年は、逃れようともがきながら涙目でついに叫んだ。
「この、人殺しっ」
「……ひ、ひとごろし?」
はたと我にかえる。
私は青年の肩に片足をのせたままで、顔をのぞき込んでみる。そもそもの話として、
「あなた、人間なの?」
そして話は冒頭へと戻る。
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