第7話 悦子という女

 まさるは入社以来馬車馬のように働いてきた。

 そのため女性と知り合うチャンスがなかった。その上、安アパートでの暮らしは花も実もあるとは言い難く、10年も続ければ嫌になってくるものだ。

 味気ない独身生活からの脱出、そろそろ身を固めたい。賢は思い切ってパートナー紹介倶楽部なるものに入会した。

 ―― 思慮深くて、しかし、生きて行くことに大胆な女性。――

 婚活サイトの希望欄にこう記入した。それにしても大胆とは、賢が現状を打破したいと願う余りのことだろう。


 その思いが伝わったかどうかはわからないが、あとは自己責任でご交際をお願いしますと、悦子という女性を紹介してきた。

 もちろん心を弾ませ、悦子に会った。

 色白でエレガント、いつも遠くを見つめ、それに飽きた時には長い黒髪をさらりとかき上げる。そんな仕草の悦子に賢は一目惚れした。

 これが縁というものだろうか、悦子の方も誠実そうな賢を気に入ったようだ。そして結婚を前提とした付き合いが始まった。


 それから3ヶ月後、賢は悦子にプロポーズする。

「ありがとう、だけど、もし結婚するなら……、その前に助けて欲しいことがあるの」

 これが悦子からの返答だった。

 だが、助けて欲しいって?

 賢にとって悦子は幸せの女神、どうしても一緒になりたかった。

「何を?」と訊くと、賢の手を悦子は強く握り締め、「賢さんの上司の笠井祐司かさいゆうじからストーカーされてるの」とただただ俯くばかり。


 賢は衝撃を受けた。

 信頼している笠井部長が――。

 動揺を隠せない賢に、「笠井は単身赴任でしょ。明日の夜、私、決着を付けにマンションに行くわ。だから、その1時間後に荷物を持って来て欲しいの」と悦子が大粒の涙を零す。

 賢は合点が行かなかった。また一人で笠井に会う悦子が心配だった。

 そんな胸の内を読んだのか、「大丈夫よ、私の言う通りにしてちょうだい」と悦子が譲らない。

 賢は仕方なく、わかったと頷くと、悦子は意味深に「これから起こることは、永遠の秘密ってことにしてね」と微笑むのだった。


〈強盗殺人事件〉

 会社部長・笠井祐司、刺し殺される!

 翌々日、世間はこのニュースで騒然となった。

 第一発見者は笠井の妻、愛子。午前10時頃に夫の単身赴任のマンションを訪ねたところ室内は荒らされ、和室で刺殺されていたという。

 死亡推定時刻は午前4時。その前夜、笠井からストーカー行為を受けていたという悦子が話し合いに訪れた。

 午後8時にフィアンセの賢が迎えに来て、マンションをあとにした。

 愛子、悦子、賢の三人は午前4時には現場にいず、アリバイが成立している。


「ちょっと奇妙だわ」

 現場検証から戻って来た芹凛こと芹川凛子刑事が、何か言いたげに百目鬼刑事のデスクの前に立つ。

 何だよと百目鬼が顔を突き出すと、「死因は刺殺ではなく、睡眠薬を服用した後の……、ガス中毒死、だが臭いが残ってないわ」と芹凛が首を傾げる。

 こんな部下の疑問に、「台所に、空の二酸化炭素の消火器が2本転がってだろうが」と百目鬼が推理の呼び水をすると、芹凛はハッと気付く。

 そして恥じらいもなく大声で、「それって、無臭の炭酸ガスってことですよね」と叫び、資料室へと消えて行った。


 しばらくして、芹凛が天を睨み付けながら現れた。

 百目鬼はわかってる、こんな女魔神のような形相の時は犯行の推理をおよそ組み立てたのだと。されども「消火器2本はガス4キロ、それじゃ死ねねーよ」と先回りして念を押した。

 しかし、芹凛はこんな意地悪発言に怯まず語る。

 二酸化炭素の致死量は7%。六畳間の容積が40立米としたら、大気圧下の気体密度から計算して、死に至るには約6キログラムの二酸化炭素が必要です。

 その内の4キロがまず消火器から放たれ、残りの2キログラムはドライアイスからよ。

 ドライアイスが気体になる昇華速度は遅く、1キログラムに4時間かかります。したがって2キロなら8時間、これで死亡時刻を調整しました。

 つまり夜の8時に仕込んで、明け方4時の死亡を目論んだのです。

 悦子が笠井に睡眠薬を飲ませ、密閉した和室に閉じ込めた。


 2本の消火器を開け、さらに賢が運んできた2キログラムのドライアイスを置いた。これにより笠井は午前4時に死亡。

 翌朝訪ねて来た愛子、自ら部屋を荒らし、夫の死体にナイフを突き刺して、強盗殺人事件を偽装しました。

 だけど愛子の動機がわかりませんし、悦子が本当にストーカーされていたのか疑問なのですよね。


 ここまで一気に述べ、ふうと息を吐く芹凛に、百目鬼はギラリと眼光鋭くする。

「悦子という女は、依頼された獲物に、愛人のように近付き、殺戮さつりくする――プロの殺し屋ってことだよ。今回の依頼人は保険金目当ての妻の愛子。賢は単に利用されただけだな」

 こう解いた百目鬼刑事、若い芹凛が結婚に失望しないようにと、久し振りに思いやる眼差しで活を入れるのだった。

「さっ芹凛、すべてはまだ仮説、こういった結婚の夢を壊す事件ってのは、まあ、稀だよ。さあ、気を取り直して、証明しに行くぞ」


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