56_MeteoriteBox_16


 細い通路の向こうに大きなガラス越しの空、それから細身の人影が見えた。ドアは『ポン』という短い音を発して私の侵入を告げた。「失礼します」を無意識に言っていた。ドアを閉めようと振り返ると、力を入れずに押して開けたドアは勝手に緩やかに閉まった。それでも人影は動かずに窓ガラスの外を見ているようだ。

 多義の“間”に意識を集中させて適度な緊張感を確認する。後ろ姿は女性。精巧なアンドロイドである可能性も実体の無い映像である可能性も残っている。


「いらっしゃい」


 落ち着いた女性の声を発して人影は振り返った。完璧なタイミングで頭を下げて、絶妙な瞬時間を置いて頭を上げる。平均的な背格好だが姿勢がとても良く、綺麗な黒髪が後ろでピシッとまとめてある。細いフレームの眼鏡とタイトスカートの似合う真面目そうな女性。端整な顔立ちを含めていわゆる“秘書さん”のイメージに極めて近い。そこまで認識した辺りでお辞儀を返した。


「なんて。どうぞ、リラックスして」


 彼女は柔らかい微笑みを見せた。同時に完成に近いその立ち振る舞いから発する緊張感を可能な限り緩めたように感じた。しかし私は言葉に詰まる。私がここに来たのはジェミーに言われたからで、ジェミーから彼女に話が通っているのか、彼女がそもそも何者なのか、私は何も知らない。


「警戒を解いてほしいな。そうだ、テトレンズは付けてる?」


 テトレンズは時代基軸の言葉であるはず。


「……いえ、今は外しています」


「それなら、そのまま私の手のひらを見ていて」


 女性は一切装飾の無い綺麗な左手の甲を私に向けた。一瞬、映像にノイズが入ったように見えた。いや見間違いではない、女性の手は欠けた立体映像のように青い空洞になった。半透明と剥がれたテクスチャを経て指先から女性の内側へと波及したノイズが全身を巡って、彼女は完全に“箱の中に再現された実在”の階層を維持できなくなった。私は今レンズ越しに彼女を見ていない。


「今のこれで何を示せたんだろうね。とりあえず私が不完全なことだけでも伝われば良いかな」


 不完全という言葉を拾いポケットに入れる。質感を取り戻した女性は一瞬、足元の虚空一点に視線を落とした。


「あなた、言葉遊びはお好き?」


「はい、好きだと思います」


「それは良かった。それじゃあ、少しだけぺらぺらと私に喋らせて?」


 女性は真っすぐに私を見た。瞳が深い青色をしている。それに、彼女の発するこの感じは……


「あ、座ってからにしましょう」


 窓際に並んだ小さな丸椅子二つと低いテーブルに私を誘導し、二人とも窓の外が見えるように椅子の位置を変えてから彼女が先に座った。マナーも今は気にしなくていい、私が先に破りましょうと言葉を添えて。窓の外にぼんやりと焦点を預けた女性の横顔を見てから私も窓の外を向いて座った。

 今いる高さはビルの十五階くらいだろうか。それでも辺りの高層ビル群の中では最上位層ではないので、窓の外には他のビルと空とが見えている。目下にはどこか未来の都市風景。


「私はきっと、この世界の登場人物としてあなたの前にいるんでしょう?」


 たったの数文字で私の認識は書き換えられた。いや、私の感覚が肯定された。窓の外を見たまま、確かに今彼女は“箱”の輪郭に手を当てていることを示した。


「もしもどこかの誰かが世界中を模型にしようと思ったら、“スキャン”って言葉で伝わるかしら、それをするでしょ。私はその時に“空き瓶”を手に隠し持っていた。さて、仮想箱の中に再現された私は空き瓶を持っているけれど、その中身はどうなっているでしょう」


 女性は都会の空から私に視線を戻し、深い青色をした瞳を僅かに細めた。


「……あら、興味を持ってもらおうと思ったのだけど、ダメだった?」


 その逆だ。間違いない、この人はセントラルですれ違った人々とは違う特別な階層にいる。それに、本当に微細に感じ取れるのは、砂漠のロボットの中で言葉を交わした上位概念の片鱗――


「それなら良かった。私も私で話せることは話しましょう。瓶のコルク蓋を外して、ね」


 私の返答を聞いた彼女は嬉しそうにそう言った。



* * * *



「私のことは『空き瓶』とでも呼んで? あなたの呼び名も教えて欲しいな、今考えたものでも良いから」


 私は少し考えて「リモコン」と名乗った。私は彼女を「空き瓶さん」と呼び、彼女は私を「リモコンちゃん」と呼ぶことにした。「リモコンちゃん、できるだけ丁寧語も外しちゃってね」と空き瓶さん。


「最初にこれを言った方が良いと思うから言っておくと、私が喋ることは全て、私が“そう喋るように設定されているから喋っている”のかもしれない。私は私であることを保証できない。ここまでは言えるけれど、それもそう言わされているだけもしれない。自分で言っていてこんがらがりそうね」


 やっぱり空き瓶さんは仮想箱の構造を認識していて、自分がどの階層に置かれているのかを分かっているように思える。「言っていることは分かります」とひとまず返す。


「空き瓶さんはここがどこなのかを自覚していますか?」


 自覚。自覚とは。私の言葉の入力を受けて空き瓶さんの深青色の瞳奥が光を増したように見えた。


「ここは仮想箱の中、でしょう? リモコンちゃんは仮想箱のお客様側ね」


 やはり回答はYESだ。それに私のことも仮想箱の外からというところまでは分かっている。


「そうです。仮想箱の中の人は、自分が仮想箱の中にいることを認識できないと思っていました」


「うーん……仮想箱の作り方にはいくつか種類があるらしくてね?」


 仮想箱の作り方――中々のびっくりワードが気軽に飛び出した。


「さっき模型とかスキャンとか言ったでしょう? あの例えは伝わったかしら」


「はい、ただ、聞きたいこともいくつか……」


「何でしょう」


「空き瓶さんと、空き瓶さんのいた世界がスキャンされた側ですよね。では、スキャンしたのは誰なのでしょうか。それが個人なのか組織なのか、ヒトなのか機械なのかも分かりませんが――」


 私に関して空き瓶さんが検知できていないと思われることが一つ残っている。私が仮想箱の時代空間を軸としていないこと。これはジェミーでさえ今は知らないことだ。今の私の発言にはそれを匂わせる補足を入れた。


「私のいた世界では“ワールドトレース”と呼んでいたわ。世界の一部を可能な限り写し書きする。それを実行したのがワールドトレーサー。“誰なのか”の答えね。もちろん個人ではなく意志と機構の総称よ」


 世界の写し書き。書き出す先、目的はつまり、


「写した世界は仮想箱の中に描かれる。ということですね?」


「そう。私が身をもって知っている仮想箱の作り方はこれだけなのだけど、そうやって作られた仮想箱がいくつもあるのは間違いないはず」


 なるほど。――なるほどとんでもないことを聞いてしまった。いや、方法自体には納得が行くけれど……。


「でも写し書きは完璧じゃないのよ。正確には完璧にしていない、か。中身までを写さないの」


 空き瓶さんが言っているのはハリボテの建物じゃなくてヒトの中身の方だ。セントラルに行き交う人たちやテトレンズ越しに輪郭のみになった人たちを思い出しながら、彼らのことを空き瓶さんに聞く。


「外はそうなっているのか。じゃあきっと彼らはリモコンちゃんの言う“再現された人たち”の分かりやすい例ね。人の見た目を真似て、あとは適当に歩かせておけば彼らのオリジナルストーリー全てを取り込む必要は無いの。それでも受け答えはできるからね」


 受け答えはできる――セントラルであれこれ聞いて回ったときは確かにそうだった。一瞬私を不審に思う人もいたし、私の年齢性別に相応の反応を見せる人もいた。受け答えにひとりの人間としての不足は無い。初めて駅前に似たその空間に立ち入った時にも、個々の人間が持つ時間質量物語を私は感じていたはず。……つまり、彼らの一部だけでも私を説得するには十分だったということだ。


「それは落ち込むところじゃないのよ」


 空き瓶さんは私の返した短い言葉を拾うと、そこに込められなかった感情を掬うように私を見た。顔を上げた私が青い瞳の奥に映る。


「何故なら彼らが、そうね、人間性って言葉が相応しいかどうか分からないけれど、リモコンちゃんが一番それを感じ取るようにデータを選んで構成されたかもしれないから。そのくらいは仮想箱なら訳も無くやってのけてしまう。でも、仮にその人が実在の誰かの被トレースだとして、その人が一番残したいその人だった可能性もあるの。これは個人的な願望よ。そうであって欲しいという私個人の思い込み」


「……ありがとうございます」


 最初にベンチで話した空を眺めるのが好きだと言っていた男性。例えば彼はそうであって欲しい。空き瓶さんの気遣いにお礼を言う。それから私が彼女の思い込みに共感したことを伝えた。


「こちらこそありがとう。……最初に私は空き瓶を隠し持っていたと言ったでしょう。それからテトレンズを使わなくても私が不完全に見えることを示した。私“も”セントラルの街中の人たちと同じように再現された側なのは残念ながら明確よね」


 頷き、肯定する。


「すると、私の空き瓶はやっぱり空っぽだったことになる」


 否定をしようとするが、すぐに言葉にならない。ワールドトレーサーと仮想箱の仮定作者が瓶の中身を決める。空っぽも選択肢に残る。けれど例えば技術に秀でた誰かの加護や、制作陣がそこまで細かいところを考えないが故の偶然によって、瓶の中身が残されることはあるはずだ。そんなニュアンスで未整理の反論を投げた。


「上手く言えませんがそう思います、空っぽではないと。個人的な願望で、私個人の思い込みです」


 言葉を借りて生成した僅かな子弾を含めて、深い青色をした瞳が私の反論葉の一枚一枚を残らず取り込んだ。そうか、この色は、ビルの地下――吹き抜けの底に広がる広大な空間を縫う可視化情報網の色……。


「もう一度、ありがとう。仮想箱はね、その中身全てをそのまま受け取らなくていいのよ。リモコンちゃんは――


 空き瓶さんは私が「考えすぎているようだから」と、誰かに言われたような気もする言葉を深層の入口に置いた。

 箱の外に出れば何も残らないという前提が『覚えるくん』によって崩れるのではないかという仮説を皮切りに、私は彼女の誘う複合アズライトの深層へと足を踏み入れた。

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