幼い夏

@natsuki

幼い夏

替えたばかりの畳のい草の精々しい香りで目が醒めた。

風鈴の密かな音色に混じりあって遠く蜩がやかましく八月の空を占領する。

ちゃぶ台の上には食べかけの西瓜とペプシのボトル、そして、無造作で不釣合いな未尋の携帯……。

 フェイクのスワロフスキーで飾られたデコラティブな携帯。


 着慣れない浴衣を着た未尋(みひろ)は、まるで寝息を立てない。心細くなり鼻腔にゆっくりと掌を近づけてみた。

掌に、微かに美しくて、儚い吐息を感じて僕は微笑む。


縁側や三和土には打ち水をしたのだろう、小さな水滴が真夏の光に反射して天井を伝い、未尋の寝顔に陽炎を作った。

 暫く寝顔を見つめた。

 昼下がりのまどろみの中で、縁側からはそよ風に混じって立葵の香りが微かに染みた。

 年下の未尋はまるで男のように短く切った髪と華奢な体躯を折り曲げ、安心しきったように惰眠を貪っている。

 微笑んでいるような口元、瞑った二重の瞼、長い睫、額に写る幾粒の汗の雫……。

 「綺麗だね、未尋……」声にならない声でつぶやく。

 今まで未尋を異性として見たことなどついぞなかった自分に気づいて苦笑した。

 四つ下の未尋はまだ中学生なのだ。幼馴染で、近所の男友達の先頭に立って遊びまわっていたんだもの無理もない。

 身体の弱かった僕は、そんな未尋を遠くから眺めていた。

そんな未尋をずっと遠くから見ていた気がするよ、いつもいつもただ見つめていた気がする。

はだけた浴衣から覘く白く透き通るような肌、引き締まった脚を辿ると、太腿の付け根に下着が覗いた。

 慌てて視線を逸らそうとしたけれど、未尋の瞳に捕らえられた。

 


 「いつまで子供のふりすれば気が済むの……」

未尋の視線が僕を睨みつける。

みるみる頬が赤らむ……「未尋……起きてたの、いつから?」


蜩は更に勢いを増したかのように一斉に鳴り響く。


 入道雲の彼方から雨の匂いがした。

「雨が来るね……」遠くを見つめるように未尋が言った。視線の先には逸れた雲が寂しく漂っていた。

機械的に首を振る扇風機の音だけがやけに響く。

「子供のふり続けてる方が啓介には都合がいいよね……」

「未尋、今日変だよ、西瓜でも食べたら……」

無造作に未尋が伸びをした。はだけた浴衣の胸元から微かな息遣いを宿すような白い肌が眩しかった。

「小父さんたち遅いね、墓参りのあと、雨に降られなきゃいいけど……」


 空模様を見るように未尋は僕の背中越しに顔を、開け放たれた縁側に向けた。

立葵の群生に一つ、二つ、雨粒が落ちた。

未尋の息遣いが聞こえる……まるで神様の息が聞こえるくらい近くに未尋を感じる。

肩に置かれた未尋の指に心なしか力が入ったように思えた。いや、僕がそう思っただけなのかも知れない。


 沈黙の間合いに本降りになった雨音と、二人の息遣いがこの世界の全てになった。


 雨粒が軒先を伝い縁側の古びた灯篭に落ちる……。


「啓介のおうちってもう築百年とか経ってるんでしょ……」

「ああ、父の代に一度改築しようとしたらしいけれど、出入りの大工の棟梁が、こんな大黒柱に見合う材木はもう手に入らないって、それにあと百年は持つってさ、この家」


 まるで夕立のように雨は激しさを増し、二人の話し声さえも掻き消されてしまいそうな勢い。

「雨戸、閉めようか……」

「いや、いいよこのままで、こんな雨も匂いも大学に帰ったら見られないし、嗅ぐことだってできないからね」


 僕らはそんなけぶったような景色を沈黙の中で見つめていた。

背中に未尋の鼓動を感じながら、息遣いを確かめながら僕はこの雨が止まないことを願った。

世界には僕と未尋の二人だけだ。


 背中越しに未尋の腕が僕の前で組まれ、未尋の鼓動が直に僕の肌を揺らした。

「子供のままでいたげる、啓介とこんなことできなくなるのやだもの」

耳元で囁く未尋はもう充分に自分は女なんだと主張しているように僕には聞こえた。


 世界は、食べかけの西瓜とペプシのボトルと不釣合いな携帯と僕と未尋だけ、なんて単純なんだろう、そう思う。

「キスしてって言ったら怒る?」

未尋が言い終わらないうちに僕は未尋の唇をふさいだ。

触れるだけのキスが永遠と思えるくらい長く、世界が終わるよりも長く、そうしていた。


 い草の香りや降り続く雨や、それらもろもろがこの世界の全てなんだと思えるほど単純で、

未尋の甘酸っぱい唇の感触は、思っていたよりも生々しくて、それだけが現実なんだと思えた。


 「初めてなんだよ、オトコとキスするなんて、それも自分からせがむなんて……初めてなんだ」


 柱時計の音に身を竦ませて、未尋は更に僕に抱きついてきた。

僕はと言えば……僕はいったい何をしてるんだろう……とても大事な妹のように思っていた未尋に何をしたんだろう。


 容赦のない雨はあらかた縁側の廊下を濡らしていた。激しい雨粒はそれでもこの世界を守っているようにさえ思えた。


 あんなに男の子みたいに振舞っていた未尋が僕の腕の中で震えていた。

「やっと分かったんだ、こうして欲しかったんだって……啓介にきっときっとこうして欲しかったんだって……」


 雨は止み、夕暮れの気配が忍びよっていた。

扇風機は相変わらず調子の悪い耳障りな音を容赦なく立てていた。

「例えば未尋が大学に進学する頃って僕はいくつなんだろうね……四つも違うんだ」

未尋が僕を睨みつける。

「そんなものなんだって言うの、そんなものただの数でしょ、そんなもの……」

せがまれるままに更に未尋と唇を重ねた。

幼さを残したその身体は、抱きしめると折れそうなほど細く、華奢な胸元は張り裂けそうなほどの鼓動に包まれていた。


 車の止まる音、玄関の引き戸を開ける音に僕らは我に帰った。


 その後一週間ほどして僕は大学に戻った。見送りの時未尋は周囲の視線など気にする風もなく泣きながら僕に縋った。僕の両親はそんな未尋を笑顔で慰めていた。


 帰りの列車の中でうつろう景色を追いながら未尋のことを思った。


  幼い夏が過ぎようとしていた。

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