第8話 怜悧、帰国。そして香港みやげ

「環! お客様よ、早く降りてきてー」


 一階から大きな声、姉ちゃんはいつも元気だ。

 玄関に怜悧。にかやかな笑顔、ノバチェックのブラウスと超ミニ、やたらに可愛いい。

「こんにちは環」

「怜悧、あがってよ、どうぞ」

「あんた隅におけないわね。よりによってなんでこんな可愛いい子がなんであんたみたいなのに会いにくるわけ?」

「今日、姉ちゃんなんでいるんだよ? 大学はどうしたんだよ?」

「自主休講よ! なんか文句あるわけ?」

「ないよ、全然ない。文句なんかあるわけない」

 怜悧はそんな日々繰り替えされる僕と姉ちゃんの会話をただただ笑って見てる。

「どうぞ、怜悧さんて言うのね、さ、さ、どうぞどうぞ。きったない部屋よ、覚悟しといてね」

「余計なこと言うな! 怜悧あがって、どうぞ」


 「狭小な部屋ね。全部座ったまま事足りるじゃない。便利ね」

 怜悧はラノベばっかの本棚を興味ありげに見ながらそう言った。

 「嫌味かよ、それ。久しぶりだっていうのに……」

 「おみやげよ環、それ渡しにきただけ」

 「だけって、久しぶりに会ったのに、それだけ? 感想はたったそれだけ?」

 「たった一週間じゃない、大袈裟ね。それとも久々に会ったから狂喜乱舞でもしてセックスでもする?」

 「怜悧はさ、言う事が極端なんだよ。するわけないだろそんなこと……」

 「へえー、わたしにパンツ汚すようなこと何度もさせといて、そんなことするわけないんだ、へえー」

 「なんだよ、それ!? 怜悧が仕掛けた罠にはまっちゃって、結果的にそうなっただけだろ」


  ――コンコン。

 ドアのノックの音。

 「お母さんがケーキとコーヒー持っていけって、入るわよ」

 姉ちゃんがケーキとコーヒーの乗ったトレイを机に置いた。

 「姉ちゃん! どうしたんだよ? さっさと出てけよ」

 「いいじゃない、ちょっとぐらい。あんたに女の子のお客なんて珍しいんだから、ってか怜悧ちゃん、ききしに勝る美少女ね 。貴女み  たいな子がなんで環なんかと、友だちな分け? そこが興味深々ね」

 姉ちゃんが怜悧を繁々と見つめる。確かに怜悧は僕にはそぐわないくらい美人で、眼鏡なんか掛けてるもんだからやたらに知的に見える  し、とにかく一緒に歩いても見栄えがする容姿なのだ。

 「お姉さま、褒めすぎです。調子乗っちゃいますよ。あはは」

 「環、あんたこんな可愛いい子、二度と手に入んないわよ。大事にしなきゃね」

 ダメだ。こいつ、なに言うかわかんない。強制退去した。要するに力づくで部屋から追い出したのだ。

 「酷い環! あんた、もうちょっと怜悧ちゃんと話させてよー」

 

 姉ちゃん、かなりぐずってたけど、結局諦めて階下に降りていった。

 

 「もう美月にはうんざりだ。あいつがいるとイライラする」

 「美月さんて言うんだ。環に似てる、なんだか可愛いいお姉さんね。環の扱かわれよう知ったらきっと悲し むわ」


 開け放たれた窓から雨の匂いがした。カーテンが微風に揺れた。雨には再生の神様が宿っているそうだ。

 いつか怜悧が言った言葉を思い出していた。

 怜悧は窓枠に頬杖をついてその雨を見つめていた。

 「夏に降る雨ってなんだか懐かしい匂いがするの……香港でもね、凄いスコールに見舞われて。なにもかもがぼやけて見えなく為っちゃう 位凄くてね……環、どうしてるかなって……環のことばかり考えてた」


 僕の腕に怜悧の腕が伸びて……指と指が絡まって……「キスして、環」唇が触れた。

「そんなんじゃなくて。もっとちゃんとよ……」

 雨は灰色のカーテンみたいに降り続いた。部屋から見える横断歩道……信号機の赤が滲んで見えた。

 「上唇噛んで」「はい」「下唇も噛んで」「うん」「唇も舐めて……」「ああ……」「舌出して」

「痛い!」「あまがみよ、興奮する?」「うん、ああ……」「勃起してる?」「うん、ずっとね」

「今日はだめよ、あれだもん……」「うん、我慢する……」

 「ほら、ちゃんと抱きしめて……ちゃんと抱きしめてないと見えなくなっちゃうぞ」

 

 長く、永遠と思えるくらい長く、抱き合っていた……伝わる鼓動がシンクロする。


 キスをせがむ怜悧と何度も口づけを交わした。キスをせがむ僕に怜悧は答えた。舌と舌が絡まり、唾液が交差する。怜悧の舌が僕の舌を絡 めとろうと蠢く。暫く僕らは夢中でお互いを確かめあった。

 唇が荒れちゃうくらいキスを交わした。


 真夏の熱気、雨の音、汗ばんだ僕らの身体、信号機の点滅する音、子供たちの黄色い傘、歓声、車のクラク ション、全てがスコールの灰 色に飲み込まれて、それは記憶の中に溶けて沈んでゆく。

 止まない雨みたいに十六歳が永遠に続けばいいと思う。怜悧とずっと一緒にこの夏が永遠に続けばいいのに……。

 止まない雨はなく、明けない夜はない……僕らもいつかは歳を取り、怜悧もいつかはまぼろしだったみたいに僕の掌からこぼれてゆく、  そんな予感……。怜悧は自由だ、どこにだって行けるんだ。

 僕は留まったままだ。きっとどこにも行けやしないだろう。

 急に怜悧が窓から身を乗り出した。

 「危ないよ怜悧……」

 容赦なく打ち付ける雨に顔を上げる怜悧……みるみる全身ずぶぬれになってゆく。

 ふいに怜悧が振り返り僕を見つめる。

 僕はゆっくりと怜悧のびしょ濡れの胸の谷間に顔を埋める。

 「僕から離れないでね怜悧、いつまでも一緒にいて……」

 「分からない……確かなことなんてなにもないもの……」

 「あるさ! 怜悧、愛してる。腹ペコのライオンみたいに怜悧を愛してる」

 「愛なんて……そんな、不確かで、不安定で、不遜で、実体のないものなんかに縋る気はないわ……」

 雨を含んだ怜悧の胸元の鼓動を聞いてるだけで安心していられた。

 「怜悧は僕のこと、どう思ってるの?」

 「南極でラクダを見つけたって感じかな……」

 「えっ? なんて言ったの……」

 僕たちは夏の匂いがする降り続く雨を見ながら何時間もそうしていた。怜悧はその間中、駄々っ子をあやす母親みたいに濡れた髪を撫ぜ  続けた。僕はといえば、まるでその場所が昔からそうだったみたいに鼻先を怜 悧の胸の谷間に押し付けていた。

 僕にとってはここに、僕の腕の中に怜悧がいることのほうがはるかに重要な気がしていた。例え、いつか、どこかにいってしまうとして  も、今はここにいるんだ。怜悧は僕の腕の中にいる……。

 鼓動も、匂いも、温もりも、全部僕のものだ。今だけは……犬じゃないよね僕。

 暮れなずむ部屋の陰影に怜悧が溶けていくような気がして抱きしめた腕にそっと力を込めた。

 「ばかね環……どこへもね、どこへも行きやしないわ……」


 晩御飯を一緒にって母も姉貴も誘ったけれど、頑なに固辞して怜悧は帰っていった。

  怜悧が帰ったあと、ベッドの上の免税店のビニール袋を思い出した。

 おみやげの包みを開けた。

 立派な皮製のチョーカーとリードが入っていた。


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