第5話 理性と欲望の天秤ばかり
『どうしたの? 講習休んだりして!? TELしても出ないし、心配してた。夏風邪? ええええ三十九度もあるの!?』
『大袈裟ね、そんなわざとらしいアニメみたいな驚き方しないでよ。パパもママも旅行でいないの。兄貴は多分女のとこだし……』
『行くよ、お見舞いにいくったら!』
『環、日本語が変。ああ、講習終わってからでいいからね。なんか買ってきて、冷たいものがいいな。ダッツのアイスとか……』
切れた携帯をデニムのポケットにねじ込んで、愛用のママ・チャリに飛び乗って学校を出るのにきっかり五秒。新記録だ、多分。
ファミマに寄ってダッツを買う。クッキー&クリーム。
混雑する自転車用道路を縫うように走り怜悧の家に着くのに二十分。これも新記録。
たっぷり汗を掻いた。二キロは減っただろう。呼吸を整え、インターホンを押す。
『環なの? 早かったね。どうぞ、鍵はマットの下……』
ガラガラ声だった。
「大丈夫なの? 具合悪そう」
ベッドの中の怜悧はいつになくか弱そうで、僕はなんだかその姿を見てるだけで愛おしさがこみ上げてきた。
「うん。クスリ飲んだから熱は下がった……と、思う」
「食べる? ハーゲンダッツ」
「うん……まだいいかな……汗だらけで気持ち悪い。環が来る前にシャワー浴びようと思ったんだけれど、フラフラして起きられなかったの」
手を額に当てた。熱かった。顔も火照ってるし、額には汗の粒が浮かんでる。
「まだまだ頭とか冷やしたほうがいいよね。氷まくらとかあるの? ヒエピタとかある?」
「うん、多分キッチンのどっか……ごめんね、迷惑かけて」
***
なんとか探し当てた氷まくらを宛がう。怜悧は気持ちよさそうに目を閉じた。
「やじゃなかったら身体も拭いてあげようか……飼い主が弱ってちゃ、愛犬としてはここを動くわけにはいかないし……」
「優しいのね、環。違うね、環はいつも優しいものね」
「変な意味じゃないんだ。決して性的な意味とかそんなんじゃないよ。怜悧がつらそうだからさ」
「分かってる。こんな時に環がそんなこと思ってるような子じゃないって、信じてるもの」
怜悧が上半身を起すから手伝ってと言った。手を貸した僕の腕には汗でぐっしょり濡れたパジャマ、怜悧が気持ち悪いって言うのも無理はない。
パジャマのボタンを外そうと手を伸ばす。
「いい、自分で脱ぐ」
「えっ? うん、ああ」
「風邪、うつしちゃうかもよ……ゴホッ」
「うん、構わない。怜悧のウイルスならA型でもB型でもどんとこいってやつ」
「バカ!」
パジャマを脱ぐ怜悧を見ていた。汗で光る肌はピンク色に上気して、つんっと上を向いた生意気そうな乳房や、ちょうどいい具合に抉れた鎖骨や、腰のくびれや、二の腕、それら全てを僕は美しいと素直に思った。
性的な興奮などとは程遠い感情が僕を支配していた。なんて言うのか、そう、憐憫だった。
いつも高飛車な怜悧の頼りなげな態度が、風邪で参ってるとはいえ、初めて見せる弱さが僕の心を締め付ける。
怜悧の身体を拭いた。辛そうに僕に身体を預けた。「くすぐったい……」身をよじり僕を睨む。「我慢しなさい!」「はい……」丁寧に、貴重品でも扱うように丁寧に拭いた。
「汗臭い?」
「いいから黙って……僕に任せて……」
ほんの少しはにかみ怜悧は目を閉じた。
「怜悧、怜悧」
「……眠っちゃった?」
「うん、パジャマの着替えどこ? 裸で眠っちゃまずいから……」
「汗引いたね……なんだかすっきりしちゃった……」
「着替えたら、眠って……怜悧が迷惑じゃなかったら、ついててあげるから」
「気持ちいいから……このまま。シーツかけて……」
「いいの? 寒くないの? エアコン切ろうか……」
シーツに包まった怜悧がいたずらっ子みたいな目で僕を見つめる。
「献身的な環の看護のお陰でだいぶ良くなりましたとさ……心細かった。パパもママもどうしてこんな時いないんだろって、恨んだわ。兄貴すらもTELに出てくれないんだもの」
「いいから黙って……手、繋いでてあげるから……ここにいるよ」
「うん。ありがと……」
「いつの間にか寝ちゃった……」ぼやけた視界に目をこすった。
ブラインド越しに夕暮れの気配が忍び寄っていた。
覆っているシーツがはだけて怜悧の真っ白な肌に淡い陰影を投げた。
「寝なかったの怜悧?」
「うん。ずっとね、ずっと環の寝顔見てたの……」
「大丈夫? 寒くない?」
「ちょっとだけ寒い……」言いながら怜悧は身を竦めた。
「まっぱだもん。なんか着なきゃね」
「環が暖めて……入っていいよ」
セミダブルのベッド。怜悧が少しだけずれる。充分な空間ができる。シーツ越しの怜悧のシルエットが誘ってるようにさえ見える。、
「風邪うつったらいや?」
「そうじゃなくて……怜悧はまっぱでしょ? こんな状況って……」
「我慢できなくなるかな? わたしは正直なとこ、どうにでもなれって思ってるよ。さっき飲んだバファリンのせいかもしれない……したいんなら、してもいいよ……熱も下がったみたいだし、選択権は環に預けるわ。こんなチャンス、二度とないかもよ……わたし今相当弱ってるもの。環の温もりが欲しいとか思ったりしてるもの……」
僕はそのなんていうか……僕だって健康で健全で、若さも性欲も持て余しぎみの多少のヘンタイ的趣味はあるものの、十六の男児なわけで、性欲だって人並みにあるし、したいのは、やまやまなわけで、まあ色々理屈はつけてみても普段からヘタレな僕なわけで……。
もじもじする僕を怜悧は被ったシーツの隙間から覗いてる。僕がどこまでこの誘惑に耐えられるのか、面白がっているのかもしれない。
「無理だ! ああ僕はヘンタイだ。風邪引いてる弱った怜悧につけこんで……が、我慢できない」
大急ぎで服を脱いだ。 パンツ一枚で怜悧の横にダイブした。
「最初から素直にくればいいのに……おばかさんね、環」
シーツに包まってもまだ踏ん切りがつかない僕、ヘタレだやっぱり。
まっぱの怜悧に抱きつかれた。脚をからめてくる怜悧。
胸のふくらみや、細い二の腕や、温かな鼓動、それら全てが洪水みたいに僕の頭の中をいっぱいにした。
怜悧の瞳は穏やかで、曇りがなかった。信頼してくれてるんだね、僕を……こんな僕を。
萎縮した。僕は恥じた……だめだ、こんな日にしちゃいけないんだ! 飼い主の弱みに付けこむなんて最低だ。最低の犬だ。
「……でもしないんでしょ環は……こんな可愛くてステキな子がまっぱでくっついてるってのに……元気ないものね、あそこ……わたしが弱ってる時に付けこむのがいやなのね。理性の勝利ってやつ、おめでとう環」
焦っていた。さっきまではあんなに元気で、あんな妄想や、こんな妄想ではちきれそうだったのに、肝心な時に僕のペニスったら……。
「どうしちゃったんだろ!? こんな肝心な時に……だめみたい」
「……そういう環、大好きよ。思いっきり抱きしめて、思いっきり暖めて……」
言われた通り僕はバカみたいに怜悧を抱きしめた。抱きしめることでしか伝えられない思いもある。
何ひとつわからないことだらけでも肌を伝わって通じることもある。
どうしてこんな状況でブレーキがかかったのか……もちろん、僕がヘタレで初めての経験だったってこともある。でも、僕に抱かれて微かな寝息を立てている怜悧の横顔を見ていると、これでよかったんだと思ったりする。
多分、僕はまだ犬でいたいんだろう怜悧の。
怜悧だって今日の出来事は一瞬の気の迷いかもしれない。
一人ぼっちで世界に取り残されたら、さすがの怜悧だって、誰かに縋りたくもなる。
それがたまたま僕だっただけ、そんな同情九割の感情で受け入られたって、そんなものは偽りだ。贋物だ。
それに付けこむなんて犬畜生にも値する愚行じゃないか、僕は待つ。怜悧が僕をちゃんと彼氏として認めてくれるまで待つ。
愛犬から怜悧を守れる番犬へ、そして、いつか彼氏として認めてくれるまで、僕は、お預けを喰らうのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます