第2話 日常と怜悧という非日常の硲

 七時、目覚ましの音……消そうと必死に手を伸ばす。

「環!!起きなさい。ごはん、できてるわよ」


 ぼおっとした頭で階下に下りる。

「環!それぇ、わたしの歯磨き粉! 高いんだから使わないで!」

 相変わらず姉ちゃんは朝から元気。

 ゴシゴシと音がするくらい磨いたらいくぶんかすっきりした。

 怜悧のこと考えてたら眠れなくなって朝方まで起きてたから、頭にはまだ睡眠の欲求が充満していた。

実を言うと、怜悧のオナニーを妄想して、眠れなかったってのが正直なところだ。

 今だって頭の中に怜悧の吐息がこびり付いていて、中々消えてくれない。

 パンと牛乳とオレンジ・ジュースを一気に流し込む。

「いってきまーす」

「いってらっしゃい。車、気をつけてよー接触事故多いんだからね」

 母さんも元気。

 「どけ! 邪魔」

 姉ちゃんに蹴飛ばされた。パンプスをつっかけて転びそうになりながら玄関を飛び出す。

「ぼけっとしてっとほんとに事故るよあんた! 母さんに言われたでしょ!」


 車庫からママ・チャリを出し、玄関を出る。今日も暑くなりそう。蜩が煩いくらい晴天の空を占領する。

いつもの日常の始まり。なにも変わらない一日が始まる。


 「へへへ、待ち伏せ」

 ブロック塀からひょっこり怜悧が顔を出す。

 唯一つ変わってることといえば、こいつだ。いや、こいつなんて言ったらなにされるか分からない。

 災難ってのは『ある晴れた朝突然に』やってくるものなのだ。

「どうして!? なんで僕の家知ってるの?」

「あんたの住所の近くでぶらぶらしてただけよ。学校と環の住所を天秤にかけてね。どうせあんたのことだから、安全でまともな道した通らないでしょ。それにかけてみたのよ、確立五分五分にかけてみたの」

 よく分からない確率論だ。五十%の会える確立はどうやって求めたんだ、いったい?

「TELくれればよかったじゃんか、携帯に」

「なんで犬にわたしからTELしなきゃなんないのよ。生意気な犬!」

 尻を蹴られた。痛かった。涙が出そうなほど痛かった。

「今日、学校行く気分じゃない。サボタージュ日和ね、もちろん環も付き合うのよ」

 またか、僕はまたまたこの悪魔の策略にひっかかりひどい目にあうのか……?

「なによ、なに黙ってるのよ。なんか言いなさいよ」

「なにを言っても無駄だろ。だからなにも言いたくない」

「じゃあいいわ、As you wishって三回となえなさい」

「なんだよそれ?」

「ご主人様の仰せのとおりにって意味よ、バカ!」


 そのまま朝マックに直行。子供連れのヤンママ軍団の白い目をよそに怜悧はことのほか元気。

 最近の女子ってみんな元気だ。

  固めのシェークに悪戦苦闘してる怜悧が可愛かった。ほっぺたがぎゅっとすぼまって、それでもシェークが吸い込めないらしく顔を真っ 赤にして吸い続ける。

「なによ、バナナ・シェーク好きなのよ、なんか文句ある?」

 それにしてもよく食べる。ソーセージ・マフインだけじゃ足りなくてパンケーキまで平らげた。

「外、何度くらいだろ。出たくないな」

「へなちょこねぇ、にしても死んじゃうね。外出たら確実に干からびて死ぬな。……エアコン効いてるとこで長時間いれるとこって……」

「ここにいようか、ずっと……」

「バカ!わたしたち制服よ。どこからどう見たって高校生のカップルが学校サボってるとしか見えないでしょ。さっきから店員じろじろ見てるし」


 ****


 怜悧に手を引っ張られ、繁華街を抜けた。

「さっき、いいとこあるって言ったのここ」

 ピンクの壁! ラブホ! 

「エアコンばっちり利くし、眠りたきゃベッドあるし、汗かいたらシャワーもある。カラオケも歌い放題。プレステもウイーもある。この時間は格安料金だしね」

「だしねって、僕ら制服だよ!?この格好でここに入るの!? ふ、ふ、ふ、不純異性交遊はだめって生徒手帳に」

「ばかじゃないの。セックスするわけでもあるまいし、涼しいとこで休みたいって言ったの環でしょ!」

「で、でもこの格好じゃあ……」

「大丈夫。誰とも会わないで部屋に直行できるから、セックスしなきゃ不純でもなんでもないったら!」

 セ、セ、セ、セックスなんて大声で言うな! なんでそんなに詳しいんだよとか、学校さぼってるのはいいのかよとか、 さぼって君とこんなとこ入るのは不純な異性との交遊じゃないのかよなどと反論しようものならきっと犬のくせにとか言ってまた分けのわからないお仕置きを喰らうはめになるから、結局は怜悧に引っ張られてラブホの門をくぐった。

 僕に意志は全くない。全て無視、犬だもの仕方ない。


 こんな時間でも空いてる部屋は少なかった。

 「どれにする? エヴァ、マクロス、ハルヒ、シャナ、 空いてるのは四つだけかぁ。ねえ環どれがいい?」

「なんでもいいよ。早く部屋決めてったら。見られちゃうよ」

「つまんない奴。おどおどして、尻尾巻いてキャンキャン言いそう」


 結局、薬局、美人局、怜悧はエヴァンゲリオンって名前の部屋を選んだわけで、入室するとエントリープラグみたいなベッドが目に飛び込んできた。なんか笑えた。四方の壁はエヴァのイラストだらけ……シンジがこっちを見て笑えばいいと思うよなんていいそうな感じ。


 「わはは素敵ー。LCLで満たされたプールまであるじゃん」

 僕はひんやりとした空気の冷たさに、なんだかほっとして調子の悪そうなエアコンの音を聞きながらベッドに倒れこんだ。

 「汗かいて気持ち悪い。シャワー浴びる。ガラス張りなんだからこっち見たら承知しないから、分かった?」

 「うん、分かったよ」

 「信用できないな。目隠しするからタオル持ってきて」

 言いながらすでにブレザーを脱ぎ、これみよがしにスカートを脱ぐ。薄目で僕を見るしぐさはまるで挑発してるようにしか見えない。ブラウスを脱ぎ床に捨てる。

 ブラとパンツだけで僕に近づく。

「黙ってじっとしてるのよ」

 怜悧は念入りに僕に目隠しをし、おまけにバスローブについてる腰紐で手と脚を縛った。


 「な、なんでここまでするの!?」

「犬が本能に目覚めたりしたらめんどくさいもの。わたしに断りもなくすぐいっちゃうし、これならなにもできないでしょ」

 「手足を縛られたっていくことくらいできる!」

「ばか! 環って究極のおばかね」


 かすかにシャワーの音、怜悧の鼻歌。多分エヴァの挿入歌『甘き死よ、来たれ』ってやつ……。

 いつの間にか寝てしまったみたい……。


 『……近いじゃん。うん、面白いもの見せてあげる。すぐこれる? 住所? 住所はええと……』

 怜悧がどこかにTELしてる……何する気なの怜悧?……眠い、たまらなく眠い……そして不安……そして欲望という名のなにか……犬は余計なこと考えちゃいけない。


 「起きろー環。犬のくせに飼い主ほっといて寝るってどういうこと?」

 顔をいじられた。多分足の指……いい匂いがした。石鹸の匂い……ドアをノックする音……。

「早かったね、薫(かおる)久しぶり」

「久しぶりーどうしたの怜悧。学校は? なにこれ……?」

「わたしのペット。わたしの犬よ」

 別の女の子の声。なにする気なんだよ!? 僕は縮こまる。なにされるんだろ?

 二人がベッドにしゃがむ。軋む音で分かった。

「そっちの学校どう?」

 「退屈、つまんなかったけれど、犬ができてすっごく楽しいよ、毎日。あはは」

 怜悧が言いながら僕の鼻を乱暴につまむ。痛かったけれど、声を押し殺した。

 髪をくしゃくしゃにされた。

「寝たふりすんな環。どう?妄想してる? 女の子二人にそんな姿見られてる感想を述べよ」

「ひどいなぁ怜悧。かわいそうこの子……」

 「ほんとにそう思ってる薫? ねえねえほんとに?」

「怜悧は元々ネジが一本はずれてるからね、あはは。かわいそうだけど、なんだかぞくぞくする、場所が場所だしね」

「そんな私のマブダチのあんたはなによ。薫だってネジずれてるくせに」

「あはは、環君って言うんだ。わたし、怜悧のマブダチの薫です。藤堂薫(とうどうかおる)よろしくー」

「ほら環、寝た振りなんかしてないで自己紹介しなさいよー」

 怜悧に上半身を起された。

「目隠しとこれ取ってよ。こんなかっこうで自己紹介なんて……」

「うるさい、黙れ! 犬のくせに。犬なら犬らしく飼い主の言うことだけ聞いてればいいの」

 僕は目隠しをされ手足を縛られたまま、ベッドに倒された。

「あ、相川環……怜悧のクラスメイト、そして、怜悧の犬です」

「はい、良くできました。あはは、やればできる子なんだよね環って……」


 その後、怜悧と薫は僕なんかそっちのけでカラオケを歌いまくり、僕なんか忘れてゲームやったり、プールではしゃいだりしてた。多分、そうだ。なにしろずっと目隠しされてたわけで、音やなんやかやでそう想像するしかない。

 数時間後二人はベッドに倒れこんだ。

「ねえ、疲れちゃった。そろそろ百合っちゃう? 昔みたいに……どう、怜悧?」

「うん、えーと、とりあえずキスしてみて……そんな気になるかどうか試してみて薫」

「環、耳ダンボにして聞いてるよ、きっと……」

 隣でキスする音、わざと声を上げながらキスする二人……。

 長時間縛られて手足が痺れた僕を怜悧が容赦なく足先でいじくりまわす。

「痛い! 怜悧、痛いったら!」

「勃起していっちゃわないように痛点で思い知らせてやるからね、犬」


 更に一時間後僕はやっと解放された。

「楽しかったって薫。また遊ぼうって……」

 両腕にうっすらと赤いミミズバレができていた。

「かわいそう環。とってもかわいそう……」

 両腕をさすりながら怜悧はいつになく優しい顔を見せる。

「こんなになるまでよく我慢したわ。ご褒美上げる、なにがいい?」

 黙ったままじっと怜悧を見つめる。

「わかんないよ、もうなにもかもわかんないよ……」

 涙が溢れた。なぜ泣くのか分からなかった。涙は、あとからあとからとめどなく溢れた。

「ごめんね環、ごめんね」

 怜悧の言葉が信じられなかった。こんなに傷つけられてるってのに僕はもっと怜悧を好きになってゆく。

 怜悧の舌が僕の涙をなぞる。抱きしめられた。きつくきつく抱きしめられた。

 「泣かないで、お願いだから泣かないで……」

 髪を撫でながら怜悧は僕を胸に抱く。僕は抜け殻みたいに怜悧のされるがまま。

 僕の感情はどっかにいっちゃったみたいにぽっかりとそこだけ空虚だった。

 「それでも、それでも、こんなわたしを……ずっと、ずっと好きでいてね環……」

 怜悧から初めて聞く懺悔の言葉……犬とは言わなかった。

 「好きで好きでしょうがないんだよ! 怜悧のいない世界なんてだいっ嫌い!」

 怜悧は更に更にきつく僕を抱きしめた。


 なにもかもがウソっぽくて、なにもかもが虚しいこの世界で、僕は恋をした。

 なにもかもがあるけれど、なんにもないこの世界。

 ところどころに開いた大きな穴はもう埋めようがないくらいいっぱい開いていて、僕らには埋めきれないく らい、多すぎるから。


 それでもなんとか埋めようともがいていたら怜悧に出会った。

 だから僕は恋をした。

 それがどんな悲劇的な結末を向かえようとも、どんな未来が待っていようとも僕は受け入れる。

 僕は犬。怜悧の犬。

 多分、それ以上でもそれ以下でもない。


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