どこまでも優しくて、どこまでも残酷な君

@natsuki

第1話 怜悧のこと……

 市川怜悧(いちかわれいり)と出会ったのは高一の夏休み直前。

これは転校してきた怜悧に一目ぼれした僕、相川環(あいかわたまき)との物語。


  *****



 「なに? なんか話でもあるの、わたしに……」

放課後の教室、残ってるのは転校してきたばかりの市川怜悧と僕だけ。偶然今日の掃除当番が一緒だった。それだけ……。

「授業中もずっと見てたでしょ。ぶしつけな視線で……言いたいことあるなら、言いなさいよ」

 振り向いた彼女と何度も目が合った。当たり前だ、ずっと僕が彼女の背中を見ていたんだもの。

 そのたびに彼女は「なに、こいつ」みたいな顔をした。

「……自分でもよく分からないんだ。こんな感情初めてだから……」

「どんな感情よ。言わなきゃわかんない」

 僕は黙ったまま俯く。女子と喋るのに慣れてない。すでに見透かされてるだろう、そんなこと。

 真正面から見つめるメガネ越しの視線が痛い。

「あなた、草系? 少なくとも肉系じゃないよね。痩身のチビだもん。わたしより女の子みたい。体重いくつ?」

 チビって言われた。酷いこと平気で言うんだな。まあ確かに彼女より背が低いかも、ほんのちょっとだけれど。

「五十キロ、女子と喋るのに慣れてないんだ。あんま喋るの得意じゃないし」

「で、最初に戻るけれどなんか用わたしに? 転校したてだからって間違っても友だちになってなんて言わないよ、わたし」

「いや、その、なんて言うか……君を見てるとドキドキしたり、こう、なんて言うか、抑えられない感情みたいなものが……」

 市川怜悧がつかつかと歩み寄り僕の右手を取り、それを自分の左胸に押し当てた。

「……はぁ!? な、なにするの!」

「だってまどろっこしいんだもの。生きてるのよ、ドキドキなんて当たり前でしょ。素直に恋しちゃったくらい言えないのかなぁ」

 僕はとっさに手を引いた。柔らかい感触が残った。市川怜悧の左胸の感触、心臓の鼓動……。

 顔が火照るのが分かった。きっと真っ赤だろう、からかわれてるのか僕は……。


 「まあ、この学校でまともに話しかけてきたのはあなたが初めてだから、一回くらいデートしてあげなくもないわ」

「デ、デ、デート!?」

「女子とデートもしたことないの? 晩生ねぇ、今時珍しい無形文化財級の……もちろん童貞だよね、うふふ」

「あるさ! 二人っきりって経験ないだけ。みんなでプールいったり、ゲーセンいったり、カラオケだって……」

「そういうむきになるとこがねぇ……童貞君あはは。よーく見るとかわいい顔してるね、名前なんだっけ?」

「相川、相川環(あいかわたまき)。童貞君なんて言い方よせ!」

「これは、これは、失礼したわ。たまきー、あはは」

 赤い縁のメガネが踊った。ロングヘアーが揺れた。市川怜悧は席に戻りブレザーとセカバンを取り僕にこう言った。

「行きましょ環。そろそろ先生が見回りにくるよ、こんなやつに恋しちゃうなんてあんたも大変だね」


 ****


 河川敷までママ・チャリを漕いだ。女の子を後ろに乗っけて漕ぐなんて初めてだった。

「いけー環! 銀河の果てまでー!」

 怜悧は自転車に乗ってる間中「星間飛行」を口ずさんでいた。


 河川敷を登りきったところで僕は息絶えた。夕方の河川敷、人影もまばら。

 怜悧が飛び降りたのを確認してママ・チャリを放り投げ芝生に寝転んだ。

「はあはあはあはあ……も、もう無理」

「体力ないなあ、運動は苦手? 童貞君じゃなかった、環クン」

怜悧が覗き込む。汗臭いんじゃないか、それだけが気になった。

「得意じゃないだけ。二人乗りなんて初めてだし……」

 市川怜悧は僕をじっと見、やわらセカバンからハンカチを取り出して僕に渡す。

僕はそれを無言で受け取り、額の汗を拭った。

 怜悧の顔が僕の胸にかぶさる。髪の匂い、芝生の匂い、川面を渡る風の匂い。いろんな匂いが交じり合って鼻腔をくすぐる。初夏だ、恋にはもってこいの季節だ。

「すごい! 心臓が早鐘を打つってこういう状態なのね。大丈夫 ?」

「死にやしないさ。まだ十六だしね」

「分からないよ、そんなこと。明日死ぬかも、あさってかも……」

「分からないけれどね、明日死ぬかもなんて思って生きてるやつなんかいないさ」

「そうね、でもいつ死んでもいいように、ちゃんと告白しといたらどう環?」

 見つめられると相変わらずドキドキする。

「好き、なんでしょ? わたしのこと……一目ぼれしちゃった? 恋しちゃったの?」

覗き込むと、僕の顔色を伺うような視線。メガネの奥で笑みを見せる瞳。長い睫毛、吸い込まれそうな藍色の瞳。僕はほんとに恋しちゃったみたいだ。


「市川怜悧。ぼ、僕は君に一目ぼれしました。なんていうか、そう、これが恋なのかな?」

言葉の端々が震えていた。見透かすように怜悧が更に覗き込む。

 そして、おもむろにメガネを外してこう言い放った。

「犬になれる? わたしの……」

「い、犬って!?」意味が分からなかった。犬ってなんだ!?

 怜悧はつっかけたローファーを放った。

「取ってきて、今すぐ」

「取ってきてって!?」

「ほらーソックスが汚れちゃうでしょ。取ってきてよ、手で拾っちゃだめよ、口で咥えなさい」

躊躇してると脱いだほうの足で背中を蹴られた。仕方なくローファーを口で咥えた。靴クリームの味がした。

「そこに置いて、そうそう。靴下汚れちゃった。舌で舐めて、汚れ取ってよ」

「できないよ。そんなこと、できない」

「じゃあ、ここで終わりね、わたしたち。終了」

すっくと立ち上がり歩き出す怜悧。

「わ、わかったよ……や、やるよ。終わりなんていやだ、始まったばかりだよ、僕たち」

振り向きざまに怜悧が言う。

「僕たち? 始まったばかり? なにそれ……一度逆らったらもっとハードル高くなるの。憶えておいてね環」

 すごい剣幕で怜悧が僕の腕を引っ張る。橋の下、橋脚に僕は立たされる。

「な、なにすんの?」

僕を睨みながら怜悧はローファーを脱ぎ、靴下を脱ぐ。ところどころにたまった汚水に裸足の足を浸す。

 「舐めて……きれいにして、逆らったバツよ」

橋脚にもたれながら怜悧が汚れた脚を差し出す。

 僕は混乱する……なに、これって? ゲームかなんかのつもりなの? 怜悧、分からないよ、なんで!?

「できないなら終わりよ。即終了、犬はご主人様の命令は絶対なの、逆らったら更にハードル高くするから、際限なくね、いい?」

 僕は諦めた……犬はご主人様の命令には忠実に従わなければならないんだそうだ、それでも怜悧の傍にいられるならそれでいい。


 怜悧の足を両手で挟み、指を舐めた。すえた泥水の匂い。それでも怜悧は指の間まできれいにしなさいと僕に指示した。僕は腹でもこわさないか、それだけが心配だった。

 僕は言われるままに足の泥を舐めた。プリーツの入った制服のミニスカートから太股やパンツが覗いた。

「どこ見てるの! 犬のくせに……」

舐めてる舌が膝まで到達した時「はい、終わり!」続いて「靴下履かせて!」「靴も!」と、立て続けに命令口調で怜悧は僕を痛めつける。

僕はまるで催眠術にかかったみたいに怜悧のいいなりに従う。 でも、嫌じゃなかった。信じられなかった。

 こんなことをしてるもう一人の別の自分がいるような感覚、僕はそんな僕を俯瞰で見てる。

足を舐めるのも、靴下を履かすのも、ローファーを履かせてあげるのも……いやじゃなかったんだ!?

 「とりあえず合格。あはは付き合ってあげるわ、明日も、でもあさってはないかもよ……但し、友だちでも恋人でもないわ。飼い主とその愛犬としてならね」


 次の日の昼休み学校の屋上に呼ばれた。

手すりを背に怜悧は含み笑い。

「環どう? 犬の生活二日目の感想は?」

「犬が喋っていいの?」


 怜悧が笑った。残酷な笑い。チェシャ猫みたいにずるがしこい笑い。

「この学校しごくまともなんでびっくり。前の学校は援助やってる子や、クスリやってる子なんか普通にいたのに……ツーショのチャットで小遣い稼いでる子とか」

「一応、進学校だからね。東大にも現役で入ってる子いるし」

「つまんない学校……ママが選びそうなとこだわ」

「怜悧もそんなことしてるの?」

 吹き抜ける風が夏が近いことを告げていた。気の早い蜩が耳障りに鳴く。

 「そんな風に見える?」

「見えないよ。頭よさそうだもの」

「メガネで騙されてるね。だいたい、頭いいのと、そっち方面となんか関係ある? まあいいわ。頭はいいほうかな、どうだろ……身体は、脱いだらすごいんだよわたし。百六十五センチ、四十五キロ、胸大きい、腰めっちゃくびれてるし、ヒップは桃みたいだし、脚長いしね」

「そのスカート、校則違反だよ。短すぎるもの」

 笑ってる時の怜悧はとっても可愛い。あんなことする子には見えないんだけれど……。

「さっきから脚ばっか見てる。舐めたい? 昨日みたいに……あはは」

 そういうこと、平気で言えるんだ。そんな顔して……。

素足にローファー……舐めたい。そう思った。どうかしてる、昨日から……。

「部活入ったの……弓道部。放課後、校門のところで待ってて、部活終わるまで。帰ったら許さないから」


 ***


 校門のところでブラブラしてたら不思議そうな目で僕を見るクラスの子何人かとすれ違った。


 数人が体育館の裏手の弓道場から出てくる。中に怜悧もいた。

長身の男が怜悧に話しかける。

「誰?」

「うん、クラスの子……」

「じゃあまた明日。さよなら」

「うん、明日。さようなら」


 一団と離れてゆっくりと怜悧が近づく。

「誰だったの今の人。先輩?」

「うん。弓道部の部長、気になる?」

 いたずらっぽい目で覗き込む。悪魔みたいな目つき……。

「あれ、メガネは?」

「コンタクトよ。まとが見づらいんだもの」

「メガネないと見違えちゃう。なんか、怜悧じゃないみたい」

「メガネしてるとブスなんだわたし。やなやつね環って」

「いや、そういう意味じゃないよ。可愛いってより美人って感じでさ」

「もう遅い……罰を与える。ちょっと、駅前のショップ付き合ってよ。メガネ屋さんでメガネのつるとコンタクト見てもらうから……」

 罰を与えるてのが気になったけれど、僕は頷いた。


 一階のメガネ屋で、メガネの調整をしてもらう間、ぶらぶらとテナントショップを見て回った。

夕方の時間帯、人いきれでごった返していた。

 怜悧がファンシーショップを見つけて僕の手を引いた。

カウンターに飾ってあるネックレスをじっと見ている。

 シルバーのペアのオープンハートが気にいったみたい。じっと手にとって見つめてる。

「気に入ったの?」

「うん」

「買おうかそれ、たいした値段じゃないし……」

「買ってくれるの?」

「ペアだろ、僕もしたいもの」

ネックレスを僕に渡す。

「ここにいて……動いちゃだめよ」

ゆっくりと怜悧が離れてゆく。僕はお預けをくらった犬の心境で立ち尽くす。

 携帯が震えた。

『それ万引きして、わたしのために……』

『できないよ、そんなこと……』

『犬なんでしょ、飼い主に逆らうの?』

 向かい側で怜悧が微笑んでいた。きっと犬歯かなんかがぎゅーって伸びてる。そうに違いない。

『だから買うってば……』

『買ってなんかいらない。買ったらそんなもの捨ててやるから!』

『ぼ、僕にはで、できないよ』

 唇が震えた。ネックレスを持つ手も震えた。

『できなきゃ、ここでさよならだよ。できなきゃ……以後、いっさいの接触を絶つから』

罰を与えるって意味がやっと分かった。震える手でネックレスを握り締めた。

 他の客にかかりっきりの店員は全く気付いていない。

 落ち着け、落ち着くんだ。自分に言い聞かせた。

 振り向くと向かい側にいたはずの怜悧はいなかった。


 店内を出た。どっと汗が噴出した。

「メガネ屋さんでメガネ受け取ってきた」

背中越しに怜悧のうれしそうな声。びくっと身体が反応する。

 「逃げよ! 環!」

店のドアからこっちに向かってガードマンが走ってくる。

 監視カメラかなんかでばれたのか! 

人ごみを掻き分けて走った。こんなことはもう沢山だ! 怜悧が僕の手を握った。

笑っていた。満面の笑みで僕を見つめる。呼吸ができない! 苦しい! こんなことはもう沢山だ!

「良くやった。これでまたひとつわたしの信頼を勝ち得たぞ、環」

更に人ごみを掻き分け走った。やみくもに走った。怜悧と手をつないでいつの間にか僕も笑っていた。

 うまく息ができず、可笑しいのに笑えない。金魚が水面でプカプカするみたいに息が吸えない。

「うはぁ、はぁ、はぁ、こ、こんなこともう沢山だ!」


 気が付けば人影もまばらな公園のベンチ。

「付けてよ。そのネックレス」

「もう、こんなことやだよ。もう二度としない」

「いいから付けてったら!」

髪を持ち上げてうなじを向ける。握り締めたネックレスは汗でびっしょり。

「素敵。最高のプレゼント、ありがとう環」

優しい手つきで怜悧が僕の首にペアのネックレスをはめる。

 耳元で怜悧が囁く。

「これは首輪よ。わたしの犬君……何度もこういう目に合わせてあげるわ」


 ***


 日曜日、怜悧からテル。今すぐ遊びに来いという。 住所は、ここからそう遠くない。ママチャリに飛び乗る。

 二十分ほど必死で漕ぐと怜悧の家の前に着いた。門扉の表札を確かめる。

 築百年は経ってそうな豪邸、二メートルほどもある塀には蔦が無数に絡まっていた。

  

 「入んなさいよ。なにぐずってるの! 今日はパパもママも留守、犬なんだから言うこと聞くのよ。ちゃんと言うこと聞けたらご褒美上げる」

僕は無言。怜悧は薄い生地の白のワンピースを着て僕を値踏みするように見てる。下着が透けて見えそうだった。思わず目を伏せた。

 「玄関で目をつぶって百数えて……かくれんぼなんて何十年ぶりだろ……わたしを見つけたらキスしてあげる。いい?」

 僕は頷く。律儀に百数えてスニーカーを脱ぐ。

「ごめんください」もちろん返事なんかない。

広い三和土から続く廊下を音を立てずに歩く。中庭はよく手入れされた日本庭園風。池や鹿威しまである、立派なものだ。廊下に場違いなワンピースが脱ぎ捨てられてあった。さっきまで怜悧が着てたものだった。

 それを拾う。すこし歩くと白いブラ、そしてパンツ……もしかしてまっぱ!?

心臓を押さえた。張り裂けそうなほどドキドキしていた。額やうなじに汗が滲んだ。なにも天気がいいとか、夏日とかってだけじゃない。手にはしっかりワンピとブラとパンツを握って更に奥に進む。

 辺りは静まり返って、鹿威しの音にびっくりしたり……影が見えた。

「怜悧!」

廊下の曲がり角、ひよっこりと顔が覗く。

「はぁ? 君は誰だ?」

「す、すいません。人違いです……てっきり怜悧だと思って……」

「あはは、なんだよその下着? ふふん、怜悧のお遊びにつき合わされてるわけか……」

慌てて後ろでに隠す。もう遅い、しっかり見られた。両手に下着、どう見ても変だ。

「す、す、すいません! 市川さんの学校のクラスメイトで、その、相川です。相川環です」

「へえ、怜悧が友だち呼ぶなんて珍しいな。怜悧の義理の兄の千郷(ちさと)です。多摩美の一回生、四つ年上。母の連れ子だからね、怜悧とは血のつながりはないよ」

「す、す、すいません。怜悧さんがかくれんぼしようなんて言うもんだから」

「さっきから謝ってばかりだね、まあゆっくりしてってよ。僕のことは気にしなくていいよ。すぐ大学に戻るから、学祭の出展製作に忙しくてね。かくれんぼか?怜悧とねえ、大変だね君も、あはは」

 長身、痩躯イケメンを絵に描いたような兄貴がいるとは……一言も聞いてなかった。家には怜悧と僕だけだと思ってたから……犬には説明不要ってわけか。


 廊下を更に奥に進む。障子で仕切られた部屋がいくつもあった。なんて広さだ。無駄の極地。


「もう飽きちゃった。全然見つけてくれないんだもん」

中庭の生垣からひょっこり怜悧が顔を出す。スヌーピーのTシャツにピンクのショーパン。まっぱじゃなくて良かった。

 「見つけた!」

「バカ! こっちから出てきてやったのよ」

「でも、見つけた……」

「キスなんかしてあげないわよ。見つかったわけじゃないもの、お預け」

犬の気持ちが分かるようになってきた。お預けはことのほかつらい。

「お兄さんに会った」

「えぇ? 帰ってきてたの?」

「なんか取りに帰ったみたいだったよ。すぐいなくなったもの……」

「兄貴なんか言ってた? わたしのこと……」

「怜悧のおふざけにつき合わされるのは大変だねって……」

「ふーん、そんなこと……あいつも女癖悪くなきゃいいやつなんだけどね」


 廊下は更に続いていた。いったいどのくらいの敷地なんだろここ? 

渡り廊下の前にきた。

「こっちの離れにわたしと兄貴の部屋があるの。寄ってく? 男なんか入れるの初めてよ私室に」


 ドアを開けると八畳ほどの洋間。見事になんにもない。窓側にベッドがあるだけだ。本棚やクローゼットは全部壁にくくりつけ、だからか部屋がやけに広く見えた。

ベッドの上にノート・パソコン。そこから外部のi-podみたいなスピーカーが二個、クラッシクがゆったりと流れる。

「なんて曲?」

「バッハ、無伴奏チェロ組曲、チェロはヨー・ヨー・マ。兄貴の趣味よ」

 ベッドも黒、PCも黒、ベッドカバーも黒、白い壁にシンジと綾波のポスター。まるで男の部屋みたいだと思ったけれど、口には出さなかった。

「ここにいてもいいのかな僕……」

「なによそれ、シンジじゃん」


 ここは父親の祖父の家なんだそうだ。その祖父が完全介護つきの高級マンションに移り住んだために、市川家四人に引っ越してくるように、いわば強制されたんだと怜悧は言った。

 この家屋は築百年どころの話じゃないらしい。有形文化財なみだそうだ。

 「葬式だけは仕方ないけど、それ以外は絶対わたしたちの世話にはなりたくないんだって祖父も祖母もね」

「座敷わらしかなんか出そうだよね、ここ。ああごめん……」

「いいわよ、別に……この家に住むのだって義理みたいなもんでしょ、大人の。パパもママも別に愛着なんてないわ。わたしだって都心のマンションのがずっといいもの」

 「この部屋に入った最初の男が僕なんて……なんか、光栄だな。怜悧に近づいた気がする」

「ふん、で、見つけたご褒美なにがいい? キスはダメよ、キスはお預け。まだ早いもの」


 雰囲気が変わった。怜悧の匂いにむせそうになった。勃起しちゃう。この部屋には怜悧と僕だけ……家には誰もいない。ベッドに座る怜悧のショーパンからむき出しの真っ白な太股、素足、Tシャツから覗く胸のふくらみ、頭がくらくらした。

「……あ、脚なめていい?」

 勝ち誇ったような怜悧の顔。足先を僕の鼻面に差し出す。

「犬のくせに贅沢ね」

僕は夢中でむしゃぶりつく。足指からゆっくりと丁寧に舐める。

 怜悧は目を閉じ、ゆっくりとベッドに横たわった。

 無伴奏チェロ組曲が何度もリピートする。くるぶしからふくらはぎへとゆっくり舌を這わす。膝からふとももへと移動する。抵抗しない怜悧。いつもはせいぜい膝下までなのに……太股を舐めまわす。

 腕が自然にTシャツ越しに胸を撫でる。柔らかくて、弾力があった。指が乳首を探し当てた。

 「はぅう……」押し殺した怜悧の声が空気に溶けた。


 「いっちゃった……」

「バカ! なに勝手にいってるのよ。犬のくせに、むかつく!」

蹴飛ばされて床に転がった。

「なにその顔、卑屈な野良犬みたいな顔して!勝手にいくなんて許せない!」

首根っこを掴まれ、クローゼットに引きずられる。

「ごめんなさい……怜悧、ごめんなさい……」

「うるさい! はいんなさいよ。お仕置きよ、ただじゃ済まさないから……勝手にいくなんて」

入る前にまた蹴飛ばされた。もんどりうってクローゼットの奥の壁に頭をしこたま打った。

クローゼットに鍵をかける音。ルーバー越しの灯りに怜悧が見える。

「……怜悧、ごめんなさい。勝手にいってごめんなさい」

ベッドに寝たまま肘をついてこっちを見つめる怜悧。

「許さないから童貞シンジ……絶対許さないから」

 PCの音楽が変わった。

 エヴァのエンディングかなにかの曲だった。「甘き死よ、来たれ」


 ぞくぞくした。ルーバーからかすかに見えるベッドに寝転んだ怜悧の姿。

その右手は太股の付け根に隠れていた。微妙に動く右手、顔は見えない。

 時々、ため息みたいな吐息が漏れた。

 妄想が加速する。ごわごわした僕のパンツ、ベッドの軋む音、ルーバーからもれる怜悧の吐息、僕のことなんかとっくに忘れて右手の動きに夢中な怜悧。白昼夢みたいな情景。


 PCはその曲を何度もリピートする。


『私は壊れていく 壊れていく

 壊れていく


 崩れていく 崩れていく

 崩れていく

 壊れていく 壊れていく

 壊れていく

 崩れていく 崩れていく

 崩れていく

 壊れていく 壊れていく

 壊れていく 』

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