act.32 幸福の花嫁

 潮風を受け、髪をかき上げながらネシェルが嬉しそうに笑う。

 その顔をクフィルもいとおしげに見つめていた。

 やがてクフィルが笑い始める。

 それをネシェルが不思議そうに眺めた。

「ずいぶん、嬉しそうね」

「おかしくて笑ってるんだよ」

「何がそんなにおかしいの」

「助けるはずの花嫁に助けられるようじゃ、怪盗も廃業だろ。派手に正体も晒してしまったしな。ここいらが潮時かもしれないな」

 その呟きに、また嬉しそうに微笑むネシェル。

「ダブルエックスはいなくならないよ。待っている人達がいる限り。だってそうでしょ。幸せはみんなのものだから。誰だって幸福の花嫁になれるはず。きっとそうだから」

「……」

「私はそう信じている。独り占めなんて……、……できない」

 そう言って少しだけ淋しそうに、そして何よりも強く笑ったネシェルを見つめ、クフィルは眩しそうに目を細めた。

 それから満たされたように笑みを向ける。

「幸福の羽飾りか。よく似合っている」

「?」クフィルの視線の先をネシェルがたどる。そこには胸元に装着された、七色の羽飾りがあった。「……」

「こんなに幸せそうな花嫁を、今まで見たことがない。綺麗だ、ネシェル……」

「!」

 優しげなクフィルの声にネシェルが、はっとなる。

 それが幼い頃に聞いた、母を呼ぶ時の父の声のように聞こえたからだった。

 しかし、唇を震わせながら見上げるネシェルは、クフィルの顔を見て言葉を失うこととなった。

 血の気の失せた顔はすっかり青ざめ、眠そうな目を今にも閉じようとしていたからである。

 最後の力を振り絞るように、クフィルがネシェルに笑いかける。

 その直後に、ネシェルを優しくゴンドラに置くようにクフィルが崩れ落ちていった。

「クフィル……」

 薄い笑みを残しつつ、クフィルは動かなくなった。

「クフィル! クフィル!」

 懸命なネシェルの呼びかけにも、クフィルが応えることはない。

 それでもぐいと涙を拭いながら、ネシェルはクフィルに呼びかけ続けた。

「クフィル! クフィル! クフィル!……」

 ふと、ピーピーピーという物音に気づき、ネシェルが顔をきょろきょろさせる。

 音はネシェルのドレスの胸もとから聞こえてくるようだった。

 わけもわからず、それを手に取るネシェル。

 するとラファルの落ち着いた声が聞こえてきた。

『聞こえますか、ネシェルさん』

 いつの間にかラファルが小型の通信機をネシェルの胸もとに仕込んでいたのである。

 胸もとの幸福の羽飾りとともに。

「ラファル! クフィルが、クフィルが!」

『落ち着いてください。ご無事ですか。忌まわしき怪盗からお守りすることができなくて、申し訳ありませんでした。もし今すぐ窮地から抜け出したいのならどこでもいい、すきを見て先ほどの羽飾りで彼の身体を貫きなさい。強力な麻酔薬で動きを止められるはずです。あなたは必ず我々が保護します』

「お願いです! 彼を! 彼を助け……」

『心配はご無用です。彼がもし我々のもとを抜け出した人間ならば、すでに猛毒におかされているはずです。もってあと一、二時間というところでしょう』

「そんな!」むぐ、と口をつぐむネシェル。「何でも言うとおりにします。だから、どうか彼を助けて……」

『そうですか。では言うとおりにしてください。もしあなたがどうしても彼に罪を償わせたいと言うのであれば、羽飾りに付けてある筒の中に入れておいた解毒剤を飲ませなさい。まだ充分間に合うはずです。いいですか。よく考えて行動してください。羽飾りの中の解毒剤を飲ませれば、彼は一命を取り止めることになるかもしれません。それでもいいというのなら、そうしてください。くれぐれも判断を誤らないように願います。これは友人としての最後の忠告です』

「!」

 慌てて羽飾りに手をかけるネシェル。

 装飾部分をはずすと、中からカプセルのようなものが出てきた。

 それをクフィルへと差し向けるネシェル。

「クフィル、これを飲んで。早く!」

 だが気絶して動けない状態のクフィルには薬を飲むことすら困難だった。流し込む水すら手元にない。

 焦りばかりが重なっていった。

 意を決して口を結ぶネシェル。

 あふれ出る涙もなんのその、手にしたカプセルを自分の口に含み、唇をクフィルのそれへと重ねた。

 口移しで飲ませるために。


「美しい……」

 その呟きとともに、ファントムは愛アンドキング・ランチャーの構えを解いた。

 まだぎりぎりで届く距離にもかかわらず。

 それを目の当たりにし、ホーネットは目をつり上げて騒ぎ始めた。

「何故撃たない!」

「あれを見るのである」

「あ!」

 ファントムが指さす方向に目を向けるホーネット。

 ゴンドラの上では、口づけを交わす若き男女の姿が見えた。

 その光景に見とれ、うっとりとりつかれたようにファントムが感嘆の言葉をつむぐ。

「あんなに幸せそうな花嫁を私は見たことがない。幸福の花嫁の前ではすべてが無力である」

「かまうな、撃て、撃て」

 銃を構えるホーネットを、横向きの愛アンドキングで吹き飛ばすファントム。

「ぎゃあーっ!」

 続けざま部下達も威嚇し、その火力を無効化させた。

「何をする、貴様!」

「まだわからんのであるか、この醜い下種どもは。こんなに素晴らしいセレモニーを、誰にも邪魔させはしないのである」

「こんなことをしてただですむと思っているのか」

 尻餅をついたままのホーネットを、つぶらなまなざしでファントムが睨めつける。

「ただですむかどうかを決定する権利は貴様達ごときにはないのであるが、案ずる必要もないのである。今日限りこの仕事は廃業する。幸福の花嫁は、決して貴様達の式の中には存在しないのが愛わかった。まっことのこと、貴様達にはほとほと愛想がつきたのである。ファントムの名も今日限り捨て去ることとしよう。いらない何もかもを捨ててしまおう。愛のままにわがままに、生まれ変わるために、最後に勝つのは、やはり愛である……」


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