act.26 幸福の羽飾り

 エスコートのないまま、ネシェルは会場へと足を踏み入れようとしていた。

 身も沈むほどの赤いカーペットの上を滑り、大きく重い扉を開ければ、数千もの見知らぬ人間の好奇の目に晒され、偽りの祝福を受けることとなる。

 誰一人身寄りのないネシェルにとって、それが誰のためのものなのかすらわからなくなりかけていた。

 すっと差し出された手の先に目をやり、ネシェルがわずかに心を揺らす。

 そこには穏やかな笑みをたたえるラファルの顔があった。

「間に合ってよかった。突然の不躾なお願いで申し訳ありませんが、私のエスコートを受けていただけませんでしょうか、ラビ様」

 力なく笑い、ネシェルが頷く。

「……お願いします」

 ラファルも心からの笑顔でネシェルを包み込んだ。

「すみません。お一人でのご入場を希望されていたことは知っておりましたが、無理を承知でお願いしてしまいました。ちゃんと許可は取ってありますので、ご心配は無用です。社長ならば快諾してくれましたよ。総隊長のエスコートなら、これ以上の警備はないと。各界の名士の方々へのアピールにもなりますしね。さあ、ご一緒にまいりましょうか」

「時の彼方までですか」

「は?」

「いえ、なんでもありません……」

「……」

 表情を曇らせ下を向くネシェル。そこからうかがえるのは、迷いだけだった。

「何故ネシェルという名を名乗られたのですか」

 前ぶれもなくラファルにそれを問われ、ネシェルが口をつぐむ。

 するとラファルは取り繕うように笑ってみせた。

「いえ、少し気になったものですから。すみません、勝手に調べさせていただきました。間違いでなければ、その名はあなたのお母様のお名前では」

「はい、そうです」ゆっくりと顔を上げ、今にも崩れ落ちそうなはかなげな表情を差し向ける。「父と母は私が幼い頃に亡くなったので、顔もよく覚えていません。でもはっきりと覚えていることがある。母の名を呼ぶ時の父の声です。優しげにネシェルと呼ぶその声が忘れられなくて、そう名乗っていたのかもしれない。もう一度あの声が聞きたくて。きっとそんなことでも父と母の存在を感じ取れるような気がしたからでしょう」

「そうですか」ラファルがにっこりと笑いかける。「その願いはかないましたか」

「いえ。声の似た人ならいたけれど、やっぱり違っていました。どんなに似ていても、父とは違う。だから私は、もうこの名前を使うことをやめようと思っています」

「ラビ様に戻られるおつもりですか」

「……はい」

「それは残念です」

「……」

「私も頑張ってみようかと思ったのですが、もう手遅れのようですね」

 力なく笑い、ラファルの顔を眺めるネシェル。

「やっぱり、思っていたとおりだった。知り合ったばかりの私に、そうやって思ってもいないことを笑いながら言う」それから静かに、それでも嬉しそうに笑った。「あなたは、いい人ね」

 ラファルも同様に笑ってみせた。

「ご迷惑でなければ、残されたそのわずかな時間だけでも、私もそう呼んでよろしいでしょうか。あなたのお仲間のように」

「……ええ」

「ありがとうございます。僕のこともラファルと呼んでいただければ結構です」

「……。ありがとう、ラファル」

「いえ。礼を言うのはこちらの方です」

 ラファルの顔を見つめたまま、また表情を曇らせるネシェル。

「わからなくなっていたんです。どうしてこの婚礼を受けなければならないのか」

「……」

「この国には力を失って自分達の存在すら保てなくなり、寄り集まってきた多くの王族達がいる。かつては王家の人間であったということだけに固執し、過去の栄華にすがるだけで、もう何の力だってないのに。確かに私がいなくなれば王家の血筋は途絶えることになる。ただそれだけのことなのに、私も彼らと同じで、それを失うのが恐かったのかもしれない」

「守りたかったのではないのですか。お父様やお母様がつないできた絆を。それを失ってしまえば、大切な家族とのつながりさえも消えてしまうような気がしていたのでしょう」

「……そうかもしれない」

「心配はいりませんよ。たとえどうなったとしても、あなたはあなたですから」

「!」

 思いがけないラファルの言葉に、ネシェルの視線が釘付けとなる。

 それを静かに見つめ返し、ラファルは続けた。

「どこにいようと、たとえ名前を偽ったとしても、あなたはあなたです。あなたの心の中にその人達が住み続ける限り、何も変わらない。彼らも同じはずです。この先あなたがずっとラビ王女であったとしても、僕にとってはあの日出会ったネシェルさんのままですよ。アイエア家王女のラビ様ではなく、僕の数少ない友人のネシェルさんとして、今日はあなたをエスコートさせてください」

「はい、よろしくお願いします……」口を固く結ぶネシェル。顔を伏せ、己に言い聞かせるように続けた。「どうにもならないことは最初からわかっていた。いい加減に心を決めろと、誰かに言ってほしかったのかもしれない。あなたがエスコートでよかった。……本当にありがとう、ラファル」

 うつむくネシェル。

 拳を握り締めていなければ、勝手に涙があふれ出しそうだった。

 それに気づき、ラファルが少しだけ表情を曇らせる。

「五億マネーのティアラ、断られたようですね」

「……。私にはそんなものを着ける資格がない。本当ならばこんなドレスだって……」

「そんなことはありませんよ。これだけのドレスをごく自然にエレガントに着こなせる方は、そうそういない。それがアイエア家の血統のおかげかどうかは僕にはわかりませんが、あなたにはこの一億のドレスを従えるだけの風格と気品がある。いえ、嫌な言い方をしてしまいましたね。訂正いたします。あなたにはそれだけの魅力がある。友人の僕が見てもクラクラします。もし僕がどこぞの王子であったのなら、あなたを奪いに参上していたかも知れません。残念です。いえ、こんなことをセレブレーターが口にしては不謹慎でしたね。忘れてください」

「……」あっ気に取られていたネシェルが、ラファルの笑顔にくすっとする。「変な人、やっぱり……」

 それを眺め、安心したように微笑むラファル。

「お願いがあります。これを着けていただけませんか」

 ラファルが差し出した手の中には、幸福の羽飾りがあった。

「前にも話したと思いますが、母の形見です。幸福の羽飾りだそうです。あなたならばご存知ですよね。母は婚礼の際にこれを付けませんでした。もし使うようなことがあれば、と僕に託して亡くなったのです」

「何故私に……」

「何故でしょうね。あなたには幸せになってほしい。理由はわかりませんが、あなたを見ているとそう思えて仕方がない。何となく母に似ているからかもしれません」

「せっかくのご好意ですが……」

「受け取ってはいただけませんか」

「私にはそのような申し出を受ける資格がない。私は、それにふさわしい人間ではありません」

「決してそんなことは……」

「ご心配なさらないでください。必ず幸せになってみせます」

「……。そうですか」ふっと笑った後で、表情を正すラファル。「ではせめて、この羽飾りのもう一つの意味を知ってください。これは己の不実を嘆き、胸を貫くためのものでもあるのです。不測の事態に陥った場合には護身用の武器にもなります。もしもの時にお使いいただければ幸いだと思ったのですが残念です」

「……」

「ご心配には及びません。あなたは我々が守ります」それから窓から射し込む光に目を細めた。「ダブルエックスは必ず現れます。あなたを奪い去るために」


 ショーアップされた祭壇に並ぶ二人を、ラファルは腕組みをしながら最後列から見守っていた。

 祝福と喝采の渦の中、セレモニー最後の段取りとなるリングの交換さえすめば、長時間に渡る儀式は無事成立する。

 それにラファルは苛立ち始めていた。

 その心情を察するように、隣でミステールが声をかける。

「ご安心ください。もうダブルエックスは近づくこともできないでしょう」

 それもそのはず、祝福者たる客人の約半数は、変装した武装セレブレーター達だったからである。

 それも特殊な訓練を受けた選りすぐりのエリート達なのだから。

「式場全体での警備員はおおよそ二千人。他の依頼をすべて断り、ステイトの全職員を動員させています。この包囲網はいくらダブルエックスとて……」

「ダブルエックスは必ず来る」

 その口ぶりにミステールが違和感を覚えた。

「まるで来てほしそうな口ぶりですな」

「バカを言うな」

 わずかに緩んだ口もとをラファルが正す。

 それにつなげるように、別の声が背後から乱入してきた。

「必ず来る」

 ファントムだった。

「私との決着をつけるためにである」

「いや、花嫁を奪うためにでは……」



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