第14話睦月
本を捲ると、土田の顔が思い浮かぶ。
相変わらず気分は悪くなるけれど、以前ほどではなくなった。
新年を迎え、友香は早速雑煮を朝食に摂った。こちらは幼いころから食べ慣れた味だった。だからこそ房子の暖かさを感じた。また、房子は徐々に病気の対応に慣れてきたので、精神的に余裕があるのが目に見える。
友香もまた、一年前と比べて精神的な余裕ができた。その証として、森本に新年の挨拶メールを送信した。返事は即座に来た。
『加東! あんまりムリはせずにゆっくりと進めばイイんやし焦らずにポジティブに行こぉさぁ。前向きにナンでも挑戦して早く普通の生活ができるよーにがんばるんよ。ゆきなにできることはしてあげるし、相談しーやぁ!』
このときの友香は指折り日にちを数えていた。正月明けにS町まで行き、携帯電話をスマートフォンに替える予定だからだ。
ときは一刻も待ってくれない。だからこそ、機種変更に必要な、人との会話に少しでも慣れようと考えているのだ。友香は決して焦っているわけではない。ただ、試練を乗り越えた先にある楽しみが待ち遠しいのだ。
友香の心の傷は癒えつつあった。それだけでなく、少しずつ逞しくなっていた。
スマートフォンに切り替えたばかりの友香は、S町の駅でLINEをインストールした。操作に慣れるのに三十分ほど苦戦したけれど、それ以降は難なく操作できるようになった。
すると、いきなりメッセージが届いた。
『加東さーん、お久しぶりです!』
Kホテルでの同僚で、友香と同年の女性だった。
彼女によると、約四ヶ月前に、高校卒業後十年ほどの勤務に幕を閉じていた。
同時期に太田もKホテルを退職したことも知った。太田について、友香は驚かなかった。太田は友香が在籍していたころより、自分は友香が一人前になってから辞める、と常日頃口にしていたのだ。
友香がKホテルを去った今、太田には守るべき後輩が同じ部署にいないということでいつ辞めても良いと思ったのだろう。それが昨年の九月だった。
友香は自分と親しくしてくれた先輩たちの門出を心の中で祝った。
あのホテルからようやく解放されたのだ、と。
その後、友香は森本にメッセージを送った。
『機種変更しました。これで一つ、できることを取り戻しました!』
友香の言葉は文字通りの意味を表していた。まだぎこちないとはいえ、携帯ショップの店員と会話ができた。自分の希望の色を伝え叶えることができた。友香が大好きな青のスマートフォンを目の前に、料金プランについて契約を交わすことができた。
そのことを森本は察知したのかもしれない。返事として三つのスタンプが送信された。どれもユニークなデザインで、友香は思わず吹き出してしまった。
同時に、自分がこのように笑えることに驚いた。
数日後、友香は関西に住む友人や、N県の離島に移住したKホテルの先輩に連絡を取った。前者には病気のことを打ち明けなかったけれど、後者は友香と同じ部署に所属していたこともあり、これまでの闘病生活を打ち明けた。
するとその先輩から着信がかかってきた。そしてこのように言った。
『加東はKホテルで明るく振る舞っていたけれど、本当は辛かったんだね。それに気付かなくてごめんね』
そう、友香はパニックを起こすまで、己の感情を悟られたくないがために鈍感で明るい人間を演じていたのだ。土田や藤川に何を言われても。
そのことを知った彼女は、ある提案をしてきた。
『ねえ、支配人たちを摘発しようよ。私も労働基準監督署に相談してみる!』
友香は彼女の意見に賛同した。いつかはKホテルの人間と戦うつもりでいたからだ。
支配人「たち」という言葉には、仲居の男性主任も含まれていた。フロントの人間は彼に散々陰口を言われたり、直接暴言を吐かれたのだ。
その中でも友香は一番の被害者であった。
友香が韓国人の食事会場へヘルプに行ったときのこと。日本料理に興味を抱いていた客は友香に英語で尋ねてきた。
友香は、もし自分が外国人として異国の料理を食べることになったら、という思いで、英語で返事をした。それを目にした男性主任は客の前で友香を酷く叱った。もちろん日本語で。
『何をくだらないことを喋っている。さっさと仕事をしろ!』
彼の言う「仕事」とは、無言で素早く料理を提供することを指している。
それを言われて以来、友香は食事会場で英語を使うことに躊躇うようになった。
現在の友香にとって、思い出すだけでも腹立つ出来事ではあるが、以前のように怯えることではなかった。
それよりも、通話中の友香にとって、引っ掛かることと言えば先輩と自分との間でズレが生じている「たち」という意味である。
彼女には、まったくといって良いほど藤川に対する疑惑がない。それもそのはず、彼女は藤川に気に入られ、また藤川は友香に彼女の失敗を尻拭いするように命じていたのだから。
友香はとりあえず、藤川のことを頭の隅に置くことにした。まずは身近な味方を作らなければ、己の力にならないと思って。
友香が記憶を一つ封じ込めたことで、彼女は友香の味方になった。
それだけでは飽きたらず、友香はLINEで初めて連絡を取った同年の先輩に味方になるよう依頼した。彼女はことを大きくすることを懸念したけれど、どうにか味方につけることに成功した。
そのことを森本に報告した。
すると、森本は友香に対して通話にてエールを送った。
『良かや? ゆきなが県内にいない今、その子とタッグを組んで行動するとよ! 何かあったらゆきなに報告して!』
友香は「はい!」と答えた。戦いの正念場にたった今、友香の病気は肩身が狭そうに友香の中に隠れていた。
けれど数日後、友香の元に喜ばしくない知らせが入った。
友香の女性先輩二人が摘発を辞退したいと言ってきたのである。
理由は二つ。人数が少ない現状で頑張っている人間が、形だけでも上司である存在を失ったらさらなる人手不足という形で負担が増すということ。
二つ目の理由は、上司と同時に現職を失った場合、彼らの生活を保証できないと主張したことにある。
友香は一瞬ショックを覚えたけれど、精神的にはそれほどダメージを受けていなかった。
他人に頼ろうとした自分が馬鹿だったと思っただけである。
あとは自分一人で戦うしかない。その戦いとは、病気抱えてでも生き延びることである。
それ以来、友香の英検に対する熱意が増した。
一日の勉強量は見開きニ頁から四頁に増えた。
そして半月過ぎたころ、友香は本番に挑んだ。
英検の準会場はM市内の塾だった。
そこに新しい出会いがあるとも知らず、友香は問題用紙を開いた。
試験は約二時間、友香の集中力は限界に達していたけれど、監督者の塾長には悟らせなかった。
自宅への帰る途中、友香が通った道には椿が立派に咲いていた。
椿の花言葉は「誇り」である。
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