第13話十二月
『森本さん、お久しぶりです。加東です。ここのところはだいぶ落ち着き、動悸がない日は語学などの勉強を再開できるようになりました。体調第一で、少しずつのんびりですが』
文章の最後に亀の絵文字を添え、友香は送信ボタンを押した。相手は森本だ。
友香の言葉に隠れた意味はない。ありのままを伝え、森本の元に届くはずだ。
十二月は始まったばかりだ。
日に日に寒さが増し、日没までの時間が短くなった。
友香が発病してちょうど一年。相変わらず他人への警戒心を抱いているものの、最近では買い物までできるようになった。
その変化を知った房子は、なるべく友香に買い物を頼むようになった。
M市で最安価の店に入ると、入り口の青果コーナーから雑貨コーナーに至るまで、クリスマスの飾り付けが施されていた。ツリーに雪を模した綿。サンタクロースの衣装を着た男性店員。
「もう、こんな時期なんだ!」
毎年繰り返されているこのイベントだけれど、一年前の友香は発病したばかりで、クリスマスどころではなかった。
それが今では子どものように目を輝かせている。頭痛や眼球の痛みを感じることもない。
現在の症状といえば会食恐怖症、不眠、焦燥感の三つ。これでも減った方である。たまに過去を思い出すこともあるけれど、友香が苦しむのは軽い動悸のみで、かえって語学への意欲が増していく。
『英語が通じるのかどうかってさー、結局人格だよね』
かつて、フロント主任の藤川は友香の顔を見ずに友香自身を否定した。
また、別の日、友香がカナダからの宿泊客の対応をロビーにて行っている間、相手が日本語を理解できないことを良いことに、藤川はこう発言した。
『日本語を話せるようになってから来いさね!』
この出来事の前から友香は己の自信を失い、パニックを起こすようになっていた。
当時の友香にとって穏やかでいられるのは、本来ならば最も神経を使うべき宿泊客と接する時間であった。
Kホテルより前の職場で接客に慣れていた友香は、宿泊客の心を掴むのに苦労しなかった。
むしろ、友香が触れたことのない知識を、宿泊客が土産として与えてくれたので、刺激的だった。
友香は自宅への帰り道、Kホテルを利用した客の笑顔を思い出した。
友香自身もいつか笑顔になることを一番星に願った。
『加東! やっぱ加東はすごいなぁ。努力して一生懸命なトコ見習わないけんって、いっつも思うよ。だけどぉムリはしないよぉに自分の体と相談しながらせーないかんよ。頑張れ! 加東』
帰宅すると、森本からの返事が携帯電話に届いていた。
森本の言葉一つ一つには、暖かさがあった。メールはあくまでも機械で、コミュニケーションツールの一つに過ぎないのに、肉声を聞いているわけでもないのに、不思議なことだ。
森本は自分の仕事で忙しいはずだ。けれど仕事の合間を縫って、友香を案じるメールを送ってくれる。それも、肉声では友香の都合に悪いだろうという配慮まである。ただ縁があって同じ部署の部下だった人間にここまでしてくれる。
友香は森本に対して、感謝の気持ちで一杯だ。
さらに森本はこのようなメッセージまで送ってきた。
『考えてナンもせんより失敗してでも前に進んだ方がイイし! ポジティブに考えて行動しなよ』
このメッセージに、友香は深い意味を感じ取った。Kホテルでの経験はただの失敗ではない、ということ。そして友香が発病したのには意味があるということだ。
森本は仏教徒ではあるけれど、宗派を問わず神の存在を信じていた。
『自分に兄弟がいるのは、支えられないと生きていけないと神様が判断したから。加東が一人っ子に生まれたのは、一人で生きていく強さがあるからだよ!』
友香は思った。自分が発病したのには、何かを成すために必要だったからなのだろうか、と。
クリスマスイヴ。房子は浮き足立って自ら買い物に出かけた。
房子は一時間ほどで帰宅した。手にケーキケースを持っていた。
「今日くらいは贅沢しなくちゃね!」
房子はケーキケースを開け、友香にクリスマスケーキを見せた。六号ほどの大きさだった。
友香の唇から生唾が垂れた。ケーキなど、加東家ではこの時期にしか食べられないのだ。
「……良いの? 私たちはまだ、傷病手当を受給している身だよ」
「良いの! お母さんが食べたいのだから!」
本当は娘に食べさせたいくせに。友香は心の中で呟いた。
けれど、友香は嬉しかった。昨年はクリスマスどころではなかったので、なおさらだ。
友香は早速ケーキを皿に盛り、二等分にナイフを入れた。
白のホイップクリームで塗られ苺を飾っただけのシンプルなものだった。それでもケーキは非常に甘く、口の中で溶けたような食感だった。
ケーキは既製品だけれど、足を運んでわざわざ買ってきてくれた房子の愛情を感じ取った。
英検一次試験まで、残り一ヶ月を切っていた。
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