第12話十一月

 紅葉はときどき血潮のように見える。ではこれは一体何に見えるだろうか。

 

 最後の散髪から約五ヶ月過ぎた。友香の髪は不揃いなショートヘアから肩までのミディアムショートに伸びていた。

 友香は鏡の前で自分の髪を摘まんだ。そしてため息をついた。

 髪が伸びるのは、生きている証。自分は病気になってまで一体何を成すべきなのだろうか。何かを成すまで、これほど苦しまなければならないのだろうか。

 不要なものは排除しなければならない。友香の耳元で、ザクッと音がした。

 パラ、パラ、と紅葉のように黒い毛束が床に落ちる。

 床に広がるのは、墨のようでもあり、酸化した血痕のようでもある。

 夕方六時の鐘とからすの鳴き声が共鳴したころだった。


 買い物から帰宅した房子は友香の姿を見て非常に驚いた。

 またしても、友香は自分で髪を切ってしまったのだ。

 「友香! あんた、また思い詰めたんじゃ……」

 「何を言っているの? 私はただ、病気の自分を捨てただけだよ」

 「だからって……」

 房子は言葉を止めた。

 「友香、そういえば動悸は?」

 まっすぐに立つ娘を見て、房子は怪訝に思ったのだろう。頭部からつま先まで何度も見返した。

 「動悸? ああ、最近は大人しいよ。特に今はね。髪、短くなったからかな?」

 房子は終日、悲しそうな表情で友香の顔を見た。

 

 『加東ー! どがんね? 体調は少しずつ良くなってきたかなぁー?』

 うつ病と不眠症を併発して約一年。友香の体は動悸が減り、以前と比べて穏やかになりつつあった。

 そのことをメールの返信に載せ、携帯電話を閉じた。その直後、携帯電話がバイブレーションで震えた。

 『そっかぁ。だいぶ良くなってきてるみたいでよかったぁ。ゆっくりでイイけん普通の生活ができるよーになったらイイね!』

 二通とも、メールの送信者は森本だった。

 先月友香が友人の原尾に真実を打ち明けたとき、人選さえ間違わなければ心を開いても大丈夫なのだと悟ったのだ。

 友香は己が少しでも精神的に楽になるようにと、森本や太田にもより心を開くことにしたのだ。

 そうは言っても、今までできなかったことが急にできるものではない。

 友香はトレーニングとして、頻繁に携帯電話を開閉することにした。

 その結果、友香の体調は改善しつつあった。もう少し体調が優れてきたら、携帯電話をスマートフォンに替えようとまで思えるようになってきた。

 けれど、新たな問題点も露になってきている。

 午前五時、友香はすでに目が覚め、気持ちが落ち着かなくなっている。

 何かをしたくて堪らなくなるのだ。

 友香はベッドから降り、房子が眠っている部屋を通り過ぎる。

 とりあえずキッチンを一周してみるが、何をしたいのか思い付かない。また、友香は極端に料理が苦手なので、調理器具を持とうとは思わない。

 キッチンを離れ、本を収納している部屋へ向かった。

 棚を探ると、一冊の真新しい本を見付けた。

 「あ……そういえば」

 友香は表紙を凝視した。それはKホテルに在籍していたころ、H市内の書店で購入したものだった。

 「そういえばまだ受けていないんだよな……」

 友香が手にしているのは、英検二級の問題集だった。

 友香は高校生のころ、準二級を取得している。けれど卒業後は仕事が忙しく、せっかく勉強しても受験する機会がなかったのだ。

 頁をパラパラと捲り、友香は思った。絶対に二級に合格して、土田を見返してやろう、と。

 二級だけではない。次の就職活動のためにも、さらに上級の準一級、最終的に一級の取得を考えた。

 病気により焦燥感が募っている友香は、一度決めたらそのまま放置することができなかった。

 とりあえず、見開きニ頁を目標として問題集に取りかかった。

 午前六時のことだった。

 一時間後、友香の集中力は限界に達していた。

 しばらく離れていたことに長く集中することは、特に完治していない友香にとって非常に困難なことだった。

 それでも友香は諦めなかった。

 仮眠を取り、思考がすっきりしてから一問ずつ丁寧に解く。それを繰り返した。

 友香が自分を取り戻しつつある証拠だった。

 その心は炎となり、紅葉のように鮮やかで明確な目標を持っている。

 北風はすぐそばまで迫っていた。

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