第11話十月
『加東さん、iPadに向かって何か英語を話してみてよ。発音が正しいかみてやるけんさ!』
自分は英語が話せないのに? 冗談じゃない!
売店所属のリボンを付けている胸がむかむかする。
『加東さんはやっぱりフロントに向いていないね。仲居になれば良かったのに』
フロント所属のリボンを付けた首が締め付けられているようだ。苦しい。
黙っていてくれ! これ以上私に関わるな!
上下の感覚を失った友香は、両手で頭部を抱えた。
「うるさい!」
「友香? どうしたの? 今の、何?」
うっかり洗濯物を落としてしまった房子は、襖を開けて友香の元に駆け寄った。
これで一体何度目だろう。
「え……そっちこそ、いきなり何? 部屋に来て」
友香には自分の雄叫びに関してまったく自覚がない。実に厄介なことだ。
「あんた……本当に大丈夫? 別の病院に行った方が良いんじゃないの?」
「何を言っているの? 他に病院といったら、S市しかないじゃない。交通費が馬鹿にならないよ! それに、行きつけの病院指定で自立支援制度を受けているし」
「そうだけれどさあ……」
房子は歯切れの悪い口調で、何かを言おうとした。けれど房子は言葉を飲み込んでしまった。一体何を言いたかったのかは、友香には分からない。
友香の言う自立支援制度とは、心療内科に受診した際、国民保険加入者であれば三割の医療費を負担するところ、一割で済む制度のことだ。
目的は大きく分けて二つ。一つは患者の負担を軽くすることで通院し完治させること。
もう一つは読んで文字のごとく、早く完治して社会的に自立させること。
ただし、これは申請すれば誰でも受けられる制度ではない。
幸い友香は適合されたので、以前と比べて経済的に余裕ができた。けれど完治しなければ意味がない。
友香はいまだ治療中なのだ。交通費などの経済的理由もあり、友香の心が穏やかになる日はまだ遠い。
毎日のフラッシュバックに加え、友香には最近新しい憂いができた。
友香の友人である原尾のことだ。
原尾は友香に数ヵ月に一度の割合でメールを送り、原尾家の飲み会に誘ってくる。
会食恐怖症を自覚している友香は、毎回断っている。
それも、病気を隠して、仕事を理由にしている。
原尾は、初めは仕方がないと思っただろう。けれど同じことが何度も続くと、さすがに不審に思うに違いない。また、友香の中で原尾に対する罪悪感が募っている。
いつか病気を打ち明けなければならない日がやって来るだろう。おおらかな性格の原尾はきっと理解してくれるかもしれない。けれど同時に友香の心の弱さを悟られるかもしれない。病気になるほど
友香は何日も、何週間も悩み続けた。
けれど毎日フラッシュバックと戦っている友香は、心身ともに疲れきっていた。森本でも太田でもない他の誰かにすがりたい気持ちになった。
思い切って、友香は文字を入力してみた。
『今までずっと言えなかったけれど、一年ほど前に病気になって人が怖くなったの。先日の飲み会を断ったのも、人前で飲食ができなくなったのが本当の理由です』
不思議な気持ちだった。友香は外出するたびに見知らぬ人間ですら怖いと思っている。その状態でいながら人間にすがりたいと思っている。本心を明かすことを避けているのに、メールに託そうとしている。
自分は矛盾だらけの人間だ。友香は己を責めた。
メールは下書き保存したままで、まだこのときは原尾の元には届いていなかった。
『藤川さんはどうして加東さんに仕事を教えないんだ! だからいつまで経っても研修生の名札を外せないんじゃないか!』
それを私に言うか? 私に怒鳴るより、主任に直接言ってよ!
自宅にいながら、友香は自宅にいない感覚に襲われる。フラッシュバックだ。
これこそタイムマシンのようで、決して良い記憶など運んでくれはしない。
毎日、毎日友香を奈落に陥れる。誰も友香を引き上げようと手を差し伸べてくれない。
嫌だ! 嫌だ、嫌だ、嫌だ! このまま一人は嫌だ!
どうして私だけなの? 私だけ、フロントカウンターから離れさせるの? どうして主任は仕事を教えてくれないの? 土田が玄関で私を責めても、見てみぬふりをして、おしゃべりをしているの?
どうして? 森本課長が休みのときは、一日がこんなに辛いの?
どうして? どうして? 太田さんと森本課長の意見は同じで私にしっくりくるけれど、藤川主任の考えとは違うの?
『中国語なんて勉強せんでよか! 早く仕事を覚えろ!』
仕事を教えてくれないのに? 中国からの観光客が増えている時代なのに?
森本課長はより多くのことを学び、自分の武器を増やせ、と言っているのに? 太田さんも誉めてくれるのに?
どうして、どうして、どうして? 二人と一人の間で溝ができているの?
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして?
疑問が友香の脳裏を埋め尽くす。やがて、どうして? が入らなくなり……。
「わーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「友香! 友香ー!」
房子の呼び声で、友香は我に返る。友香はベッドの上でダンゴムシのように蹲っていた。
「はあ、はあ……はあ……」周囲を見渡すと、友香の側には房子がいる。
「友香……よほど苦しんだのね。可哀想に」
房子は友香の背中を擦る。それでも友香の荒い息は治まらない。
限界を感じた。家族だけに背負わせるには無理がある。他に誰か、精神的負担を軽くしてくれる存在がなければ。森本や太田以外の人間で。
友香は携帯電話を掴み、固唾を呑んだ。もう、これしかない、と。
携帯電話の画面から、下書きメールを引き出す。
誤字がないか確認してから、思い切って送信ボタンを押した。
メールは即座に送信完了した。相手は原尾、一体何を感じ取るだろうか。
友香はうつ病と不眠症のことをただ「病気」とだけ表現した。答えは、原尾がそれをどのように読み取るかにかかっている。
一時間半後、友香の携帯電話が震えた。原尾からのメールが届いたのだ。
友香は原尾の反応を知りたいと思っている。けれど未知への恐怖心もある。
それでも一度メールを送った以上、友香にはメールの中身を確認する義務がある。
友香はメールを開き、脱力した。
「なんだ……もっと早く言えば良かった」
原尾は、友香に対してこのような返事を送っていた。
『連絡ありがとう。病気だったんだね。そんな症状だったのに誘ったりしてごめんね。でもちゃんと話してくれたことが嬉しいです。体は無理せずにね』
原尾は、友香の病気をしっかり理解していた。
ゆらゆらと揺れるすすきが、友香の思いを風に乗せてくれたからなのかもしれない。
けれど実際のところは、友香と原尾、それぞれ本人しか知らない。
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