第10話九月

 夏休みが終わり、平日の昼は静かになった。

 ここ、M市立図書館も例外ではない。

 友香は今月に入り、ようやく図書館という公の場に行くことができるようになった。

 それは、友香にとって非常にありがたいことだった。友香は幼いころより、本を読むのが大好きであった。ときには年の離れた従兄に本を買ってもらうこともあった。

 多くの本が集まった図書館は、友香にとって聖地である。

 そして今、友香は当てもなく本棚という街並みを遊歩している。

 カツ、カツ、カツ……。ゆったりとしたときの流れに沿っていたところ、友香の足がピタリと止まった。

 友香の目に留まったのは、ホテルマンについて書かれた一冊の本だった。

 友香は躊躇いなくその本に手を伸ばした。一瞬Kホテルのことを考えたけれど、友香は自力で回想を振り切った。

 友香の数少ない味方、太田と森本が考えるホテルというものを知りたくなったのだ。知的好奇心を抑えられなくなったということは、友香にとって大きな治療の進歩に繋がる。発病前の友香は何よりも知識と情報というものを大事にしていた。貧しい家に生まれ育った友香には、生きるための武器がその二つしかなかったからだ。

 友香が手にした本には、全国でも有数のホテルを代表する人のコメントが書かれていた。

 写真に写る表情はプライドに満ちていた。友香は太田と森本のKホテルでの活躍を思い出した。フロント係というホテルのイメージを背負う役目にありながら、自信を持って宿泊客をもてなしていた。かつての友香も、二人のようになりたいと努力した。

 憧れの二人が友香を案じている。太田は異性ゆえに頻繁に連絡を取らないけれど、たまに友香が法的なことで相談の電話をかけることがある。

 そのとき、太田はKホテルの社長に友香の復帰を訴えたと明かした。

 『あいつは絶対に成長します! 素質があるんです!』

 けれど太田の声を社長が一欠片も拾うことはなかった。社長は支配人の土田の言葉しか聞かないのだ。そして友香の解雇が決まった。

 仕事から離れて十ヶ月目に入った今でも、フロントという舞台に未練を抱いている。できることならば、もう一度別のホテルで働きたいと思っているほどだ。

 Kホテルではないどこかで。


 この日、友香は三冊ほどの本を借りた。本来ならば一人につき十冊まで借りられるのだけれど、療養中の友香には難しく、本に対して失礼だと判断したのだ。

 今でも本が好きとはいえ、友香の集中力はずいぶんと低下したからだ。

 受付で貸し出しの手続きを済ませ鞄に本を入れると、友香の腹の虫が鳴った。

 恥ずかしくなった友香は図書館に隣接するテラスへと走った。

 幸い、そこには友香の他には誰もいなかったので、持参したおにぎりを食べることにした。房子が友香のために用意してくれたのは、梅干し入りのもの二つだった。

 友香が二個目のおにぎりを食べようとしたとき、サラリーマンの男性が煙草を吸いにテラスへとやって来た。

 人間の気配を感じ取った友香は、おにぎりを持った手がピタリと止まってしまった。すでに喉を通った一つ目のおにぎりが口内へと上昇しようとしている。

 『松永さんの態度にも問題はあるけれど、あんたが過呼吸になったのはそのネガティブ思考が原因だ!』

 『あんたが痩せるまで、フロント研修生の名札を外させないからね!』

 かつてフロント主任の藤川が放った言葉が友香の脳裏に甦る。

 人気がまた一つ増えた。

 『本当は痩せるまでフロントカウンターに入れたくないのだけれど! 朝のチェックアウトでは人手が足りないから、仕方がなく! 仕方がなくカウンターに入れてやっているんだからね!』

 『俺は支配人だぞ! 俺の一言でフロントを辞めさせることも、仲居に異動させることだってできるんだぞ!』

 記憶の中で、藤川は土田と並んで友香を追い詰める。

 駄目だ。食べられない。また太ってしまう!

 友香は残ったおにぎりを鞄にしまい、駆け足でテラスから離れた。

 「はあ……はあ……」

 藤川が怖い。土田も怖い。人間が怖い! 心臓がそう騒いでいる。

 しばらく走った後、友香の背後には誰もいない。けれど友香の影がいつまでも追いかけて来る。友香は恐怖を感じ、気付いた。そう、友香も一人の人間なのだ。友香はその事実ですら恐ろしかった。

 「やだ……来ないで!」

 その後、友香は頭痛と吐き気に襲われた。


 その日の夜、友香は生理になった。頭痛、吐き気、動悸に加えて、下腹部に痛みを感じたけれど、友香は眠くて堪らなかった。生理特有の眠気だ。

 月ごとに睡眠薬の成分量が増えていることも相まって、友香はベッドの上で瞼に力を込めていた。

 昼間に幻覚を見た友香は、夢の中でまで付き合いたくないという理由で、睡魔と戦っていた。

 けれど日ごろの睡眠不足には勝てず、友香はついに眠ってしまった。

 その直前、友香は森本にメールを送信していた。

 『まだまだ外に出るのも人も怖いですが、少しずつ短時間の外出を増やしてリハビリしています』

 次の外出がいつになるのかは、まだ誰も知らない。

 友香が眠る窓を、夜長の空から月が覗いていた。

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