第9話八月
ズキン、ズキン、ズキン……。頭部が疼く血管に包まれているさまは、メロンの皮のようだ。
けれど人間の皮膚はメロンの皮ほど固くはない。むしろ果肉のように柔らかくなるときもある。
ズキン、ズキン、ズキン……。頭痛が激しくて、頭部が破裂しそうだ。
友香は思った。このまま、自分はどうなるのだろう、と。
メロンの食べごろが過ぎ、仏様への供え物になる八月の中旬だった。
「あんた、ここのところ私の顔色ばかり伺っているわよ」
「え? 何が?」
猛暑が本格的に襲い始めたころ、友香はようやく粥ではなく白飯を食べられるようになった。同時に、毎食口にしていた粥を見るのが嫌になった。
そんなとき、房子が突然言い出したのである。
「どうして、そうなるの?」
ドクン、ドクン、ドクン……。友香の動悸が始まった。核心を突かれたとは、まさにこのことだ。
「だって、あんた絶対に自分の意見を言わないじゃない。言って良いのよ! 本心を明かして良いのよ! だって、親子じゃないの。私たち」
「意見も何も……苦しいときは苦しいって言っているじゃん……動悸とか」
そう答えるも、友香は己の動悸を隠している。
「確かにそうだけれど。でも、それは病気のことでしょう? あんたの心のことを言っているのよ!」
房子が友香の顔を覗き込むと、友香の箸はピタリと止まってしまう。
友香は人当たりが良いようで、本心を見抜かれることを嫌う。また、誰かに本心を明かすことを
その日の晩も、動悸で中々眠ることができなかった。
翌日に外出を控えているというのにも関わらず。
暗闇の中、友香は思った。自分は一体何に怯えているのだろうか、と。
翌日、友香は通院している心療内科のあるH市の本土に向かった。
県北保健所で催される「くらしとこころの相談会」の予約を取っていたのだ。
いまだに改善されない自分に対して苛立ちを募らせた友香は、どこかに良い相談所がないか、S市の再就職センターに所属する
友香が江原に相談したのには、理由があった。
もともと江原は月に二回ほど、S市よりM市のハローワーク出張所でセミナーを開いていた。そこで友香は黒岩を通じて紹介された。
また、友香がKホテルに就職する際にも江原に世話になっていた。
退職した現在でも、江原はたびたび友香に安否を問う電話をかけてくれる。
江原は黒岩と違い、病気の完治までゆっくりすることを勧めている。
正直に言うと、社内の人間関係にうんざりしていた友香は、江原の意見の方が救いであった。
友香は自分が甘えていることを自覚している。けれど頻繁に動悸がする、頭痛が激しい、ではそう簡単には働けないことも知っている。何より、厳しい世界で生きてきた友香にとっても、働く上でそのような状態は許せなかった。
そして今、県北保健所の入り口に立っている。
「ここ……よね?」
黒の日傘を差した友香は、建物の中にある看板を眺めていた。
会場の場所は分かった。けれどどの部屋で行われるのか、そこの職員に聞くことができるのかが不安だった。
けれど、入り口で
友香は震える足で一歩ずつ建物の中に入った。
室内は節電実施中なのか、自動扉から生ぬるい風が友香の前を通り過ぎた。
友香の存在に気付いた男性職員は半袖の開襟シャツにノーネクタイだった。
「どちらにご用件でしょうか?」
見たところ、男性は三十代前半だと思われる。威圧感が感じられなかった。
「あの、く……くらしと、こころの相談会、に……」
それでも友香の声は震えている。一方、男性は会議室まで友香を案内するまで穏やかな笑顔だった。この時期の日射しが怒りに例えられるならば、男性の笑顔は一日の始まりを告げる朝日のようだった。
友香の相談は、入室してそのまま開始された。
まず友香がこれまでの記録を担当職員に渡し、コピーしている間に友香が個人情報を用紙に記入する。数ヶ月もの間、直筆というものから遠ざかっていたため、友香の字は上下左右に広がりアンバランスだったけれど、どうにか読める程度で済んだ。
コピーにはやや時間がかかった。それもそのはず、友香の一年半の記録は一枚の用紙につき三十二字の三十六行。それが十二ページ分となれば合計一万三千文字を越える。
その資料に目を通した後、職員は友香に対し、これまでの苦労を労った。
次に、今後の予定を聞いてきた。友香は、まず完治することに専念したいと伝えた。裁判でも再就職でも、まず健康でなければ何一つ満足にできないからだ。
現在の友香にとっては、この県北保健所に来るだけでも精一杯だった。
無事に辿り着くまで、友香の頭の中は道に迷わないことではなく、車に乗ったKホテルの社員に見られないかどうか、で一杯だった。
友香の答えを聞き出した職員は、次に弁護士とカウンセラーを紹介した。どちらも男性だった。
カウンセラーはきちんとした印象であったけれど、弁護士は柄物のシャツを着ていて、くだけた雰囲気を醸し出していた。
第一声が「体調はどうや?」だった。
「まあまあです」
友香は警戒した。この人は本当に弁護士なのだろうか、と。
けれど資料を見せると、この男性が本物の弁護士だと即座に確信した。
資料を見たと思ったら、同時に言葉が返ってきたのだ。
「ブラック企業やな。ようこんな所で頑張れたなあ」
「本当に、お辛かったでしょう」
カウンセラーが言葉を続けた。友香は頷いた。宿泊客と接するのは良かったけれど、内部の事情で辛かったのは事実だ。
特に友香はフロント係の中でも、人員不足の仲居へヘルプに行くことが多かった。何度も、フロントと仲居の板挟みになった。
『フロントの人間は頭が足らんとやろが!』
仲居の男性主任ーー名前も思い出したくないーーに据わった目で睨まれた。
そうかと思えば、今度はフロントを辞めて仲居にならないか、としつこく誘った。その都度友香は断っていたけれど、いつの間にか支配人の土田まで助言するようになった。
地球温暖化に加え記憶が甦るとなると、またしても友香は目眩を感じた。
「あ……すみません」
友香は片目を覆い、もう片方の手の平を二人の男性に見せた。
「大丈夫かい?」
「はい。もう、慣れています。それでその、今後のベストを相談したいのですが」
一瞬、弁護士とカウンセラーの二人は気の毒そうに友香を見つめたけれど、友香の要望通り、間を置かずに本題へと入った。
「そうやな。まずこのクソホテルを訴える権利はあなたにあるな。訴えたい気持ちも分かる。けれど、訴えるにはメリットよりもデメリットの方が大きいぞ」
弁護士の出だしで、その場の空気が変わった。いわゆる、世間慣れした大人の話し合いというものだ。
「デメリット、とは?」
友香は怪訝な表情で弁護士に問う。この瞬間は友香の視界にカウンセラーの姿は入らない。
「その前に、まずはメリットや。まあ、要するに気持ちがすっきりするということやな。あくまでこれは勝訴した場合だけれど。次にデメリットや」
友香は固唾を呑んだ。この男性は一体何を言ってくるのだろうか、と。
「あなたは現在、心療内科に通院している。そうなると、訴訟には主治医の許可が不可欠になる。なぜなら、訴訟の間に具合が悪くなっても、医療専門知識のない弁護士にはなす術がないからな。依頼人の健康状態を保証できない。というのも、裁判というものはな、相当の神経を使うんや。ただでさえあなたの場合、資料によると、土田とかいうふざけた男を見るだけでパニックになるやろ? それにこの男は会社のトップだから、自分に有利にコトを運ぶよう、部下に命令するのが目に見えている。これでは裁判どころか、ただの水掛け論になる。しかも裁判はタダではない。自分から体調を悪くするようなものだ!」
友香は驚いた。弁護士は己の利益になるよう依頼を簡単に受けるものだと認識していたからだ。それが県北保健所にまで足を運んで、弁護士の勝負所となる裁判を勧めない。ただ、友香の話を聞くだけなのだ。
友香は言葉を失った。けれど失望はしていない。
「あなたのやるべきことは、焦らず病気を治すことですよ」
カウンセラーが、境目のテーブルに身を乗り出して語りかけた。その言葉の重要性は、健康を失ったからこそ、友香が最も理解している。
結局、友香の件は文字通り相談だけで終わった。
県北保健所を後にした友香はすっかり手放せなくなった黒の日傘を差し、急ぎ足で駅に向かった。チェックインするKホテルの宿泊客を迎える社員に遭遇しないためだ。
駅に着くと、友香は日傘を手にしたまま、空を見上げた。H市の駅は吹き抜けになっていて、風がよく通る。
風に合わせて雲が流れている。友香にはそう見えた。
気付いたら、友香は涙を流していた。正面から吹いた風が涙を揺らして知らせてくれた。
涙はしばらくの間、止まらなかった。理由は分からない。
友香は悲しいことなど考えていなかった。生きていることに悲観してもいなかった。友香が考えていたのは、ただ一つ。自分は何のために生まれ、何を成すために生きているのだろうか、と。
帰りの電車に乗ると、鞄が震えるのを感じた。このバイブレーションは、メール受信用だ。
友香は携帯電話を開いた。送信者は森本だった。
『少しは元気になったの?』
友香は一文字ずつゆっくりと読んだ。短い文は単純なようで、複雑な意味を隠している。
森本は今でも友香の安否を案じているのだ。
「全然ですよ……」
友香もまた、複数の意味を込めて文字を打った。
『はい』
疲れきった心、治療に対する焦り。そして、無力な自分を悟られたくない思いがたった二文字に凝縮されていた。
友香は自分の思いを決してぶつけない。代わりに数多の
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