第8話七月

 ドクン、ドクン、ドクン……。頼むから、落ち着いて。

 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。お願い、眠らせて。

 深夜二時、友香は左胸の上からパジャマを掴み、ベッドの上で一人体を丸めていた。

 梅雨が明けてからは、起床時を含め就寝時も動悸がひどく気になるようになった。

 一度眠りに就いたと思えば、悪夢で目が覚める。ふたたび眠るまで、動悸が治まるのに一、二時間ほどかかる。

 夜に熟睡できないからと言って昼寝をしても、眠りに就くのに時間がかかる上に、眠った直後に悪夢で目が覚める。昼寝など、あってもないようなものだ。

 したがって、友香の睡眠時間は実質二、三時間程度になる。

 これが毎日のことになれば思考力はもちろんのこと、集中力も低下しても不思議ではない。

 現在の友香が考えられることといえば、家族に迷惑をかけないこと。森本ゆきなには必要最低限のメールを送ること。遠くに住む友人には病気を隠し通すこと。この三つだけだ。

 特に房子への配慮には相当の神経を使わねばならない。

 先月、友香は房子が自宅を離れている間に、包丁を手にし自分の髪を切った。使った道具はハサミではない。そして友香は言った。

 『ねえ、病気の私は消えたよね……?』

 そのときの房子の泣き顔が忘れられない。友香は悟った。髪を切った程度では病気は治らない、と。

 以前の友香にとっては、簡単な答えだった。

 けれど現状と戦っている友香には、熟慮し周囲をくまなく探らないと出ない結論である。

 また、周囲を探るにしても、胸の動悸という爆弾を抱えた状態なので、気持ちの余裕などない。

 自分にはもう、明るい未来はやって来ないのだろうか。

 友香は漠然と思った。蒸し暑い夏が始まったばかりのころだった。


 数日後、友香の携帯電話がベッドの上で静かに揺れた。

 友香は警戒した。Kホテルの総務課長、下川が何かを聞きつけて威嚇しようとしているのではないかと。このときはまだ、別の可能性など考えることなど、友香にはなかった。

 こういうとき、二つ折りの携帯電話は不便である。

 友香は恐る恐る携帯電話に手を伸ばした。持てる勇気を振り絞って携帯電話を開いてみると、思わぬ文字が画面に出ていた。

 友香は震え続ける電話に出てみることにした。

 「はい、もしもし……?」

 「おー、加東さん! 体調はどがんね?」

 ハリのあるテノールが携帯電話を刺激する。けれど友香にとっては聞き慣れた声だった。

 「黒岩くろいわさん、お久しぶりです……」

 電話の相手は黒岩好昭くろいわよしあきという五十代の男性だった。

 黒岩はM市の就労相談員であり、この年の一月より、Kホテルでの出来事について相談を受けていたのだ。現在では通院以外は外出が億劫なので、電話にて相談している。

 友香が初めて語ったときの、Kホテルに対する怒りを露にした黒岩の表情は今でも覚えている。

 土田や下川の、権力にものを言わせる発言。やる気がなく、友香の人格を否定した藤川。友香の存在そのものを拒絶した松永。

 『なんて汚い会社なんだ!』

 黒岩の叫びに偽りはなかった。友香は本能で感じた。

 「それで、どうや? パートでも良いから働いた方が、気が紛らわせて余計なことを考えんで済むと思うとばってん……」

 黒岩は友香の病気を熟知していない。それゆえに次の仕事を勧める。また、友香は英語も話すので、才能と人を和ませる朗らかさを活かして別のホテルに挑戦してほしいと考えている。一方では友香を心配するあまりに、テレビやインターネットで病気について調べている。

 友香はその気持ちがありがたいと思っている。それゆえに黒岩の提案にはっきりと断れない。症状を伝えるだけで精一杯なのだ。

 「働きたい……です。でも、人間関係が怖いです」

 「そうか……まだ難しいのか。それにしても、もったいないなあ」

 黒岩の心配する声で、通話は終わった。友香の緊張が一つ解けた瞬間だった。

 「うう……うっ!」

 友香の顔面は一気に汗を吹き、言葉を失った。

 隣の部屋で洗濯物を取り込んでいた房子は、娘の唸り声に気付いた。

 「友香! 友香! 大丈夫? どうしたの? ねえ!」

 房子が慌てて友香の部屋に駆け込むと、友香は携帯電話を力いっぱい握っていた。

 「きゅう……きゅう……しゃ、よん、で」

 「分かったから、しっかりして!」

 友香が包丁で髪を切って以来、房子は己の態度を改めるようになった。

 おそらく、たった一人の娘に死なれては堪らないと思ったのだろう。

 房子は慌てさえしなければ、頑固な一面に目を瞑れば、話の分かる人間なのだ。

 房子は友香の手から携帯電話を取り、救急車を手配した。

 それを間近で確かめると、友香の意識は途切れた。


 「ここ……は?」

 「あら、私の顔をもう忘れたの?」

 ぼんやりとした視界の中に、女性らしき顔が入ってきた。

 初めは無反応だったけれど、視界が鮮明になるにつれ、友香は女性の正体を認識する。

 「先……生?」

 「そうよ。それにしても驚いたわ! 今年の冬に風邪で診察に来たと思ったら、今度は過呼吸と動悸で運ばれて来たのだから! しかもバッグに心療内科医の意見書入れて!」

 「バッグ? どこに……あるん、ですか?」

 すると女医は友香が横たわっているベッドの下から愛用のバッグを取り出した。

 「覚えていないの? あなたのお母さんが救急隊員に必死に訴えていたそうよ。動悸や向こうの病院のこと、お母さんに話していたんじゃないの?」

 「あ、そういえば……そんな気が」

 友香は七月の受診の際、動悸が激しいと森本医師に訴えていた。

 早速、院内に設置された心電図で検査を受けたけれど、心臓に異常は見られなかった。

 森本医師は精神的なものだろうと判断した。けれど納得のいかなかった友香は原因をはっきりさせたいと、紹介状の発行を依頼したのである。

 それが、友香の自宅から徒歩十分ほどの、内科を設けてある病院だった。

 「さっき、あなたの酸素量、つまり肺に入る空気の量を計ったのよ。でも大丈夫。肺に異常は見当たらなかったわ。あとはゆっくり気長に休養を取ることね。傷病手当、受給しているのでしょう? 経済的には心配ないはずだわ」

 「ええ……まあ。でも、そう……ですか。おかしいところ、なかったんですね」

 「そうよ」

 友香の動悸、過呼吸は精神的な原因によるものだと診断された。

 友香はある記憶を辿った。前にも一度、こんなことがあったな、と。


 それは、友香がKホテルにて売店に所属していたときのことである。

 Kホテルでは、月に一度、月例会という、全社員によるミーティングが行われる。

 桃の花が咲き始める前、友香は一週間ほど体調が優れなかった。松永の姿を見ると急いでトイレに駆け込み、嘔吐を繰り返した。

 松永が不在のときにレジ立つと、目眩を感じた。

 これでは仕事にならない、と副支配人の中田が判断し、友香に早退させた。それが三月の月例会の前日であった。

 翌日の月例会で、友香は恥を覚悟して全社員の前で、早退の件を松永に謝罪した。実際に友香が迷惑をかけたのだから、当然のことと思っていた。

 けれど、松永はあろうことか、全社員の前で友香を無視したのだ。

 その直後、友香は息苦しさを感じた。膝が床に着き、唾液を吐いた。

 結局友香は会社のワゴン車で内科の病院に運ばれ、過度のストレスが原因だと診断された。

 問題はその後だった。

 三日ほど休暇を得た友香は、出勤した際、土田に呼び出された。

 「なしてあがんなる前に自分たちに相談せんかったと? 何のために自分たちがおると?」

 日々、友香を否定し耳を貸さなかった上での発言だった。

 そして三月下旬、友香はフロントに異動することになったのだ。


 点滴を二回打った後、友香はゆったりとした歩調で、自宅に向かった。

 夕方の温い風がくすぐったかった。

 幸いにも友香が通った道には人影がなく、夕焼けを堪能できた。

 友香は久々に茜色の空を見た気がした。

 自宅に戻ると、一通のメールが届いていた。森本ゆきなからだった。

 『あんまりムリはしないよーにね!』

 バッグに携帯電話を入れていたら、あの空を撮ることができたのにな、と友香は思った。

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