第7話六月

 『このホテルで一番偉いのは誰だ? 俺だろう! 支配人だろう!』

 土田の声で耳鳴りを覚える。

 『加東さんの方が年下なのだから、松永さんをうやまいなさい! 松永さんは何も悪くない!』

 土田は徐々に過去を遡っていく。友香もその流れに乗っている。

 『なぜ森本が加東さんと松永さんとの間に入るんだ! それに森本は言うけれど、何が加東さんは頑張っている、だ!』

 やめて。これ以上私の中に入って来ないで。友香は息苦しくなった。制服を着ていた友香は膝を折り、両手で自分の頭を支えた。そしてーー。


 「わあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 ドクン! と太鼓を叩くように心臓が激しく鳴った。

 真っ暗な闇が、友香を包んでいる。体は汗をびっしょりとかいていて、ベタベタしている。

 友香は視界に違和感を抱いていた。先ほどまでは立っていて、視界が下がったはずだった。

 それがいかにも自分が横たわっているようだ。部屋と部屋とを仕切る襖は縦ではなく、横の長方形になっている。

 時計を見ると、短い針が三を示している。おそらく午前三時なのだろうけれど、友香には午後十一時四十五分にしか見えない。

 そして、目の前にいたはずの土田がその場にいない。それに、ここはどのように見ても、友香の部屋でしかない。ついでに、友香はパジャマを着ていた。

 「友香! あんた大丈夫?」

 突然仕切りがなくなったと思えば、母親の房子がパジャマ姿で友香の元に駆け込んできた。

 「あんた……覚えていないの? うなされていたのよ。もう、何度目かしら」

 ぜえぜえと息を切らして、友香は房子を見上げる。必死な目で訴えられ、友香は房子の言うことが本当なのだと思った。

 確かに、会食恐怖症を自覚して以来、毎晩同じことを繰り返されていた。

 熟睡できたころの記憶など、二十七才にしてはるか遠い昔のように感じる。

 「ご……ごめん、驚かせたみたい、で」

 「そりゃあ、驚くわよ! やっと寝ついたと思ったらこれだもの!」

 房子はタオルハンカチで友香の顔を拭ってくれた。

 「どうする? 着替える?」

 「……ん、そうする」

 パジャマを脱ぎながら、友香は思った。自分さえならなければ、良い年して母親に苦労をかけることなどなかっただろうに、と。

 「あ……」

 就寝時にブラジャーを外した友香は、胸に髪の毛先が刺さった。

 「もう、こんなに伸びたんだ……」

 髪の一部を摘まんでみる。毛先は焦げ茶ではあるけれど、暗闇では伸びた黒髪と変わらない。

 発病当時、友香はショートヘアだった。それが今は胸元までのセミロングヘアになっている。

 それだけ、時間が経っているということだ。

 時間は、病気だからといって待ってはくれない。

 こうしている間も、Kホテルの役職者はのうのうと過ごしているというのに。

 友香は悔しいあまりに、髪の束を握り締めた。


 梅雨に入り半月も経つと、室内の空気はすっかり湿ってしまった。

 湿気に乗じるように、友香の心もさらにしおれてしまっている。

 理由は、毎晩見る悪夢にあった。

 何度も何度も、土田たちの声が脳裏で再生されるのだ。

 そのたびにわめき声を上げ、友香は安眠できない。

 また、娘の奇声が耳に入り続け、房子の心身も疲れきっていた。

 房子の黒髪には白が増え、もともと細かった体はさらに痩せた。

 寝不足が続き、家事に対する集中力は低下した。

 頻繁に昼寝を取り、夜に慌てて掃除などをするようになった。

 房子は慌てるほど言葉遣いが荒くなる。発病前の友香でさえ、生まれて二十年以上経っても慣れるどころか怯えるほどだ。発病した今では、房子に対する恐怖心は以前より増している。

 「もう疲れた! 死のうかな!」

 この日の晩も房子が叫ぶ。友香は何もできず、ただベッドで蹲り発狂が治まるのを待つばかりだ。

 けれどこの日は中々治まらない。ついに房子は買い物で発散すると言って、近所のコンビニに向かった。

 バタン! と重い扉が閉まると、家中が不気味なほど静かになった。

 友香はゆっくりとベッドから降りて、キッチンを見渡した。

 荒れた痕跡はあるものの、房子の姿は確かになかった。

 一人取り残された友香は、五分ほど呆然としていた。何も考えていなかったので、キッチンのどこを見ているのかは友香自身も分からない。

 やがて、友香はあるものを探し始めた。食器乾燥機に手を突っ込みまさぐる。

 友香の手に握られて姿を見せたのは、調理用の包丁だった。

 「私さえまともだったら……このまま楽になったら……」

 友香は自分の腹部を凝視した。包丁の刃先は徐々に腹部に近付いている。

 刃先が服に当たるまであと一センチというところで、友香は一度包丁を引いた。そして一気に腹部をめがけて包丁を降ろした。


 けれど、包丁には血痕がない。友香が寸で止めたからだ。

 「はあ……はあ……」

 包丁を持つ両手は震えていた。両足も震えていた。

 友香は初めて、人間よりも、房子の発狂よりも恐ろしいものを知った。

 それは死だ。

 どのような人間でも生き物でも、一度死ねば二度と動くことはない。友香の場合、病気が悪化することもなければ、改善されることもない。

 年ごろの女性らしくお洒落することも永遠になくなる。

 何より、幼いころから好きだった読書ができなくなる。お気に入りの作家の新作をチェックすることも叶わない。

 だからといって、このままで良いはずがない。友香は鈍くなった思考力で答えを編み出した。少しでも「病気の自分」がいなくなるように、と。

 キッチンに飾られた木製枠の鏡が視界に入る。影が揺れるように、友香は一歩ずつ鏡に向かって歩く。それも黒髪の長い女が絶望した表情で。

 午後七時ごろのことだった。屋外は薄暗く、室内では電気も点けていないので、第三者から見たらきっと不気味に違いない。

 けれどそれは友香にとってはどうでも良いことだ。問題は、自分がどのように変わるかということ。

 友香は自分の髪を束のようにして雑に掴んだ。地肌と掴んだ髪の間に包丁を入れる。そして、友香は包丁を思い切り上に上げた。

 ザクッ!

 友香の髪は左右アンバランスな長さになった。これで一つ、不眠症という病気がなくなった。友香はそう思った。快感だった。

 友香は思うがまま、もう片方の髪にも包丁を入れた。またしても、ザクッ! という音が聞こえた。

 友香の髪はすっかり短くなった。程度で言うと、不恰好なショートボブのようだった。

 これでうつ病がなくなった。そう思ったときだった。

 「ただいま」

 買い物で気分を紛らわした房子が帰ってきた。房子は妖しく笑う娘を見て、買い物袋を手放した。

 「あんたそれ、どうしたの? ええ? どうしてこんなことになっているのよ」

 房子が駆け寄ると、さらに青ざめた表情で詰め寄った。

 「ちょっと……何をしようとしていたわけ?」

 「ねえ、病気の私は消えたよね……?」

 房子は友香から包丁を取り上げた。友香はそれに構わず房子に問う。

 「消えたよね……?」

 友香は再度確認する。けれど混乱している房子に返事する余裕などない。

 「あたしのせいなの? あたしがいけないの? 育て方を間違えたの? 友香」

 「ねえ、どうして泣いているの? 病気、治ったんじゃないの?」

 友香は房子の態度にきょとんとしている。会話は成り立っていない。

 泣き止まない房子の態度に、友香は次第に気分が沈んでいく。

 ああ、まだ何かが足りないんだ。私のせいで……。

 友香は己を責めた。翌日以降、友香はますますベッドから起き上がることが困難になった。

 数日後、友香は一通のメールを受信した。森本ゆきなからだった。

 『あんまり体調よろしくないみたいやねぇ……。ムリせんよーに! 徐々に治せばイイんやし、考え過ぎんよーにしなよ!』

 髪を切ったことは、森本に報告していない。

 いつも森本から来るメールに、わざわざ詳細を報告することはない。

 いつだって、自分は一人ぼっちなのだから。

 友香はメールでまで愛想を振る舞う必要はないと思っていた。

 一方、心の隅で、真実を知って悲しむ森本の顔が浮かんでいた。

 『体が一番大事やし、ムリせずに前向きに進みなさいね』

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