第6話五月

 子どもたちの歓声が友香の部屋まで届く。

 この日は自宅より五十メートルほどの距離にある小学校で、運動会が催されていた。

 友香はますます外気に対して億劫になっていた。明るく弾ける声すら鬱陶しく思う。

 先月、友香はS市の労働基準監督署を訪れた。その帰りに何か食べられないかと、見かけた飲食店に入ってみた。

 すると中間テスト期間中だったのか、昼過ぎだというのにも関わらず、地元の高校生が席を占めていた。そこまでは比較的に良かった。

 問題はその直後だった。

 高校生たちは見知らぬ大人に驚き、友香を凝視したのだ。

 数多の視線を受けた友香は、無垢な高校生から威圧を感じ取った。近くの高校が工業専門学科の学校であるため、男子生徒が圧倒的に多い。おそらくそういった理由にあるかもしれない。

 生徒たちに悪意はなかっただろう。けれど病気を患った友香にとっては大変な恐怖でしかなかった。震える体で後退りし、店員が声をかける前にその店を去った。

 そして友香は、自分が外食や人前で食事を摂ることができないと自覚したのだ。

 思えば友香は自宅での食事中でも、唯一の家族である房子にすら背を向けていた。

 友香はどこまでも自分を蝕むうつ病を、不眠症まで併発させたKホテルの役職者や松永を恨んだ。

 とはいえ、誰かを恨んだところで病気がすぐに治るわけでもない。

 友香は現実を受け入れるしかなかった。


 帰宅後はさらに悲惨だった。電車の中で人酔いし、吐き気、より激しい頭痛、目眩に襲われ、帰宅早々トイレに駆け込んだ。

 その後うがいをし、ふたたびトイレに駆け込む。それが一時間ほど繰り返された。

 ようやく吐き気が治まったところで、友香はシャワーを浴び、ベッドに寝転んだ。

 ベッドには、氷枕が用意されていた。友香の入浴中に、房子が枕元に置いたのだ。

 房子は相変わらず友香の病気について詳しく知る手段を持っていなかった。けれど友香がどのタイミングで具合が悪くなるのかは把握できるようになった。

 房子が発狂する割合も、ゼロではないけれど徐々に減っていた。


二時間後、友香の頭痛は治まりつつあった。それでも体は気だるく、起き上がる気力もない。せいぜい携帯電話を開く程度だ。

 友香は携帯電話の十字ボタンを操り、メールの受信履歴を追った。

 友香の退職から五ヶ月経った今でも、森本ゆきなからの見舞いメールは続いている。けれどこの日友香の目に留まったのは、森本からのメールではなかった。

 それもこの月に受信したものでもなかった。

 友香が携帯電話を閉じることなく眺めているのは、先月受信した原尾からのメールだった。

 原尾の母親はM市の隣、S県I市でスナックを経営している。息子の帰省に合わせてその店を1日閉店し、原尾の父や弟たちも合流して飲み語らおうと計画していた。

 原尾の家族に気に入られている友香は、その飲み会に誘われた。

 けれど誘いのメールを受け取ったのは、先月に友香の会食恐怖を自覚した日であった。

 友香は迷った。飲み会に参加することではない。離れたところに暮らしている原尾に、病気のことを打ち明けるべきか否かである。

 心優しく友人思いの原尾は、友香のことを気遣ってくれるだろう。けれどその思いは、果たして原尾のためになるのだろうか。余計な心配で彼の時間を割いてしまわないか。

 複雑な思考でふたたび頭部が疼きだした友香は、一晩眠ってから原尾にメールを返信した。

 『お誘いありがとう。嬉しいけれど、その日はどうしても仕事を休めないんだ。ごめんね』

 友香は、原尾に対して初めて嘘をついた。このとき原尾が傷付かなかったのか否かは友香には分からない。

 けれど友香の心は罪悪感で傷付いた。

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