第5話四月

 黒の日傘から覗き見ると、空の下部が淡いピンクに染まっている。

 満開の桜花が友香を見下ろしていた。

 大量の花びらがいちいち語りかけてくるので、鬱陶しく思う。

 この日は病院ではなく、労働基準監督署に相談しに行く日だ。

 友香の鞄の中には、先月いっぱいかけて記録したKホテルでの出来事という記憶が詰まっている。

 ここ数日暖かい日が続いたので、労災の件ではなく相談だけならば、と独断したのだ。

 平日の昼間は人気が少ない。幸い友香は人間に怯えることなく電車に乗ることができた。

 三十分後、友香はS市にたどり着いた。またしても人気は少ない。駅から歩くこと十分、友香は二階建てのビルを見上げた。ビルと同じ高さの看板には「労働基準監督署」と刻まれている。

 友香は固唾を飲んだ。病気の自分を変えてほしい。Kホテルの劣悪さを改善してほしい。

 思いの詰まったバッグを抱き締め、友香は右足をそっと前に出した。


 二時間ほどかかっただろうか。友香はバッグからプリントアウトした記憶を取り出し、馬場園ばばぞのという男性職員に渡した。

 馬場園は男性の割には威圧感がほとんどなく、女性のように穏やかな印象だった。

 彼は友香に、Kホテルの違法性を説明した。

 まず、最高責任者である支配人の土田自ら友香に脅迫していること。

 それを聞いて、友香は初診日の前日を思い出した。

 『良いか! 病院に行くなら外科か内科だぞ! 間違っても心療内科なんて行くなよ! 会社の恥を曝すな!』

 土田の言葉で友香の心身が悲鳴を上げた直後だというのにも関わらず、友香に指を指して怒鳴った。

 記憶が甦ったことで、友香は弱い頭痛を感じ始めた。

 友香がこめかみを押さえると、馬場園は心配そうな顔をして話の中断を勧めた。けれど友香はゆっくりと首を左右に振った。

 「いえ……つ、続けてください」

 友香の言葉を、馬場園は二度確認した。

 「本当に、大丈夫ですか?」

 「はい、お気遣いなく」

 「そうですか……では、次に解雇に関しても違法性を感じますね。通常は会社側と個人側のどちらでも、退職に一ヶ月の猶予、つまり準備期間が設けられます。これは加東さんもご存知ですね?」

 友香は静かに頷いた。いまだに頭痛が治まらないのだ。

 「けれど会社側は退職の二日前に退職命令を下しました。これは会社のルールどころか、日本の法律にも違反します」

 「そうですね……」

 友香はか細い声で同意した。

 発病以来、友香は実家での療養を会社に命じられた。初めの期間は一週間だったけれど、二週間、三週間と延長された。そして四週目に入るころ、突然会社から解雇通知の電話が入ったのだ。

 これまで頑張っていた仕事なだけに、ショックが大きかった。 

 「次の職場に向けての治療専念」と言われ、友香は二、三日呆然とした。

 その日を境に不眠症が悪化し、倦怠感が増した。

 友香に解雇通知したのは支配人の土田でも、総務課長の下川でもなかった。普段は無口な副支配人の中田なかただった。

 中田は申し訳なさそうに言ったけれど、友香はうわべだけの言葉だと直感した。

 Kホテルの主要社員はほとんどが正社員だ。己の生活を守るため、別の誰かを陥れる。今回のターゲットは友香だった。

 おそらく友香の解雇は土田の指示だろう。土田に従わなければ、己の立場が危うくなる。結局、正社員という身分は弱肉強食の世界にあるということ。

 それが友香の推測した結論だった。それが正解か否かは分からない。

 今さら腹の探り合いの世界に足を突っ込む気にはなれない。

 「それで……どうなさいますか? 加東さんの了承次第では、調査に入ることも可能ですが……」

 労働基準監督署の職員がKホテルに立ち入ることを意味している。友香にとってはありがたいことだった。けれど同時に疑問でもあった。

 果たして職員が外面の良い役職者の鉄火面を引き剥がすことなどできるのだろうか、と。

 友香はしばらく考えた。こめかみを押さえながらも、即座には答えなかった。

 「あの……調査って依頼がないと監督署側は行わないのですか? その……定期的に行うものではなくて?」

 「いいえ、定期的に行っていますよ。依頼を受けてからの調査とは別物ですよ」

 馬場園はにっこりと返事した。自分たちの目に狂いはないと言わんばかりに。

 友香は確信した。

 これではKホテルの実状など見抜けるはずがない。馬場園の言う通り、監督署の職員が定期的に調査を行っているのであれば、と。

 それに、この時期に職員が出入りすれば、また総務課長の下川が電話で怒鳴るだろう。

 その光景が簡単に想像できたので、友香は座っているにも関わらず目眩めまいを感じた。


 入社当初、友香は売店に配属されていた。そこでは二才年上の先輩、松永まつながからいじめを受けていた。

 挨拶をしても返事が返ってきたことは一度もない。松永は友香に対して、挨拶どころか、仕事をまったく教えようとしなければ口も聞こうともしなかった。

 さらに、友香が立っていたところには本人の目の前で消臭スプレーを撒き散らした。

 Kホテルの役職者はその実状を知っていながら、友香を悪者に仕立て、松永に肩入れしていた。

 『仕事を教えてもらうよう頼み込むなり、何でもいいからやりなさい!』

 そのように下川に言われ、友香は頭に血が上り投げやりな返答をしてしまったのだ。

 『もう、良いです!』


 友香はKホテルに対して憎しみを抱いている。けれど友香が最も優先すべきことは、己の体調だ。土田や下川、藤川の劣悪さを暴いたとしても、友香がKホテルに復帰することは不可能であり、また友香自身もそれを望んでいない。

 友香はようやく己の答えを口にする。

 「調査は結構です」

 友香の力になるような存在は、ここにはない。そのように判断を下したのだ。

 「そうですか……またご相談されたいときはいつでもお電話ください。ここまで来られるのに遠かったでしょう?」

 「ええ、まあ……」

 確かに自宅から電車で三十分もかかったのだから、遠いと言えるはずだ。

 友香は簡単に挨拶を済ませ、馬場園の顔を目に焼き付けることなく監督署を去った。この場に来ることは二度とないだろう。

 覚えておくことなど必要ない。ただでさえ友香はすでに頭痛だけでなく眼球の奥に熱を感じていたのだ。

 早く帰ろう。友香がそう思った瞬間、腹の虫が鳴った。

 友香は四月に入り、ようやく茶碗半分くらいのかゆを口にすることができるようになった。

 初めは食事を摂った直後は嘔吐していたけれど、最近では粥を胃が吸収するようになった。それ以降も食事は粥のみではあるけれど、友香は空腹を己の口でも訴えるようになった。

 このときも空腹を感じた友香は、粥以外で何か口にできないかと、駅までの道のりで飲食店を探していた。新たな恐怖が見付かるとも知らずに。

 そのころ、友香の携帯電話には一通のメールが届いていた。

 『久しぶり! 今度の連休に帰省して、原尾家皆で飲み会するけれど、一緒に飲まない?』

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