第4話三月

 「ぐえ……う、げ……」

 この日は月に一度の通院で外に出た。けれど病院に行く前後が友香の戦いだ。

 友香の行きつけの病院は平日の午前中のみ診察をする。しかしながら現在療養中の友香にとって、早起きは非常に困難なことである。

 睡眠薬を服用することで、三月に入るとようやく眠ることができるようになった。そうはいっても寝付くのに二、三時間かかり、眠ったと思えばKホテルでの出来事が夢にまで出てきて飛び上がるように叫び起きてしまう。

 結局は睡眠不足ということだ。友香がベッドの中で辛そうにもがいても、房子は病院に行くよう促す。そして時間が過ぎ、房子が根負けする。

 それが月曜日から木曜日まで繰り返され、金曜日には、後がないと友香自身も慌てるのだ。

 家を出てからも勝負だ。二十代の若い女が平日の朝から一体何をしているのか、と周囲の人間に思われないように、黒の日傘で友香自身を覆う。

 電車に乗ること十五分、H市に着くとまたしても友香の神経が過敏になる。

 友香のかつての勤務先Kホテルは駅より車で十分のところにある。駅と同じH市といってもKホテルが建つのは橋の掛かった離島だ。社員がチェックアウトを済ませた宿泊客を駅まで送るサービスがあるので、友香の病気の原因となった人間と鉢合わせしても不思議ではない。

 社員との遭遇によって動悸や息詰まりを感じることを、友香は恐れている。

 しかし友香は運が良いためか、これまで一度も社員に遭遇したことがない。

 それはありがたいことだ。そして今度は三十分かけて山道を登り病院を目指す。

 道には軒並みが連なっているけれど、人影はほとんどない。

 往復で二、三人見かけるけれど、どの顔も皆暗く、精神科帰りだと思わせる。

 他に見るものといえば、Kホテルの建つ忌まわしい島と本土を繋ぐ橋、どこまでも深く青い海だけだ。他には梅花やその枝に止まるウグイスがぼやけて見える程度だ。

 友香が病院に着くと、受付の女性が明るい声で挨拶してくる。友香はそれが鬱陶しく思う。人間との関わりにうんざりしているからだ。挨拶ですら面倒になる。

 友香は会釈だけで挨拶と受付を済ませ、そそくさとロビーのソファに座る。

 友香にとっては、この待ち時間も苦痛の一つだった。そして苦痛がもう一つ。

 「加東さん、ちゃんと眠られていますか?」

 友香の主治医、森本武との対話である。

 森本医師は無愛想で、言葉にオブラートを包まない。病状が悪化している友香には、それが威圧的に感じる。

 「あの、あの……あの……」

 友香は一つずつ、ゆっくりと大まかな症状を口に出す。

 一年半の間中年男性の罵声を浴び続けた友香には、簡単な言葉を発するだけでも勇気の要ることだ。それでも通院を止めないのには理由がある。

 「うん、うん……」

 森本医師は決して友香を焦らせない。静かに耳を傾けてカルテに症状を記入する。また、森本医師は友香に傷病手当受給と治療の専念を勧めた一人でもある。

 「今後のことは後でゆっくり考えたら? 悔しい気持ちも分かるけれど、健康でないと何もできないよ?」

 この日、友香はたどたどしい口調で労災や裁判について話した。おどおどした様子を間近で見た森本医師は、友香の顔を見て答えた。

 森本医師の答えにはきちんとした意味があった。

 まず労災認定については、傷病手当同様、会社に自分で連絡する必要がある。

 傷病手当を受給するにあたり、友香は相当の精神力を消耗している。森本医師はそのことを知っている。

 また裁判に関しては、会社側、つまり支配人の土田は必ず己の潔癖を主張すると、森本医師は踏んでいる。それだけではなく、裁判所で自己主張するのには想像以上に精神的負担が大きい。医師として、患者の負担になることを避けたいのだ。

 その思いを、友香は感じ取った。自分のことを第一に考えてくれることに対して感謝している反面、やはり威圧感には勝てなかった。

 友香は森本医師の意見を呑むしかなかった。

 診察が終わり山道を降りる途中、友香は頭痛に襲われた。発病してからは毎回こうなる。ときには歩くことさえ困難になり、道端で踞る。

 友香が頭痛と戦い立ち上がろうとしているとき、何台もの車が通り過ぎるけれど、誰一人として声をかけてはくれない。

 他人は冷たい。平気で誰かを傷付け陥れる。そして自分が正義だと声高らかに言う。それなのに困っている人間に手を差し伸べることは一切ない。

 例外は、森本ゆきなだ。ただ彼女は友香の真摯な性格を気に入っている。もし友香のことを嫌っていたら、メールなど毎日のように送信してはくれない。

 彼女も人間なのだ。それでも友香は心のよりどころとして彼女にすがるしかない。

 ふらふらとよろめきながらよろめきながら帰宅するなり、頭痛が治まらないまま、吐き気に襲われた。

 胃の底から込み上げてくる酸味に耐えきれず、友香はトイレに駆け込んだ。

 「ぐえ……う、げ」

 そんな友香を見て、房子は娘の背中を擦ることしかできない。友香は唾液を吐き出す一方で、困惑した視線を感じた。

 結局、完全に吐き出すまでに一時間かかった。その後シャワーを浴びてからソファに横たわった。このときに欠かせないのが氷枕だ。

 シャワーの湯で全身がのぼせて、頭痛が悪化するからだ。こうなると、二、三日は完全に動けなくなる。食事はもちろん受け付けない。

 この調子では労働基準監督署どころか、裁判など起こせるはずがない。

 友香はゆっくりと瞼を閉じ、前日に受信したメールのことを思い出した。

 『おはよー。加東……体調はどがん? あの二人……訴えるか? 加東だけが泣き寝入りするのはやっぱおかしいわ。っていうのが、私と太田さんの意見! ホントに大丈夫かぁ?』

 『やっぱすぐには、治らんわなぁー。ムリせずにしなさいね! そして、文章は具体的に言われたり、されたりしたことを名指しで書いときなさい! 頑張れ! 加東! 今、戦わないと後悔するから! 全部吐き出してスッキリしなさいね』

 それから三日後、友香は自分のノートパソコンと向き合った。

 ベッドの上で、戦いが始まったばかりだ。


 

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