第3話二月

 『二十七才の誕生日おめでとう!』

 先月の中旬、友香は祝いのメールを受け取った。相手は原尾はらおという二歳年下の男性友人だ。

 原尾は友香が住むM市を実家に持つけれど、現在はF県にて一人暮らしをしている。

 原尾とは友香の以前のアルバイト先で出会った。さっぱりとした原尾の性格が友香に合い、互いに別の道を歩んでいる現在でも連絡のやり取りをしている。

 ただ、友香が不眠症とうつ病を患ってからは友香自ら連絡を絶っていた。

 滅多に会わない人間には、必要以上に病気を知られたくなかったからだ。

 だからといって、友香は元気を装ってメールの画面を開いたまま返信ボタンを押す気にはなれなかった。

 特別な理由はない。ただ気だるいのだ。

 結局五時間かけて返信したのは、たった五文字だった。

 『ありがとう』

 午後三時ごろだった。


 月が変わり、日に日に本格的に冷え込んできた。ときには雪が降り、友香はますますベッドから離れられなくなった。特にこの年は九州各地で積雪が目立ち、N県も例外ではなかった。

 寒い日に困るのは、動悸が治まらないことだった。

 友香の不眠症状は相変わらずで、意識が途切れることはなかった。

 『加東さんはフロントに向いとらん! 仲居に異動すれば良かったとに!』

 支配人の土田が脳裏に居座り怒鳴る。

 『なんかさー、上の人が、加東の教育をちゃんとせろ! だってー』

 やる気のない声で、フロント主任の藤川がときの流れを遮る。

 そのたび友香は服の上から左胸を掴みうずくまる。

 ドッドッドッドッドッドッ! 心臓が激しく疼く。腕の血管まで別の生き物になったみたいだ。

 お願い、来ないで! 友香は掛け布団を殼に仕立て籠った。

 真っ暗な殼の内側でも、記憶の声が脳裏に響く。

 「はあ……はあ……」

 友香は呼吸をするだけで精一杯だった。

 一方、母親の房子も苦しんでいた。六十年間生きてきて初めて知った病気、それも自分の娘が患者になったのだ。知識がないゆえに、どのように接すれば良いのか、まったくもって分からない。

 それに房子は本来の友香とは正反対で神経質な性格だ。家事にいたっては一日かけても掃除して綺麗な状態を保たなければ気が済まない。娘に関しては、一日三食きちんと残さずに食べなければ、つまり物事のすべてが自分の思い通りにならなければならないのだ。

 「友香! お母さんはどうしたら良いのよ!」

 食事のたびに房子が金切り声を上げる。友香は母親の言う通りにするのが、穏やかに過ごすことのできる唯一の方法だと知っている。それでも、友香の体が食べ物を拒絶する。土田の言葉が甦り、嘔吐が止まらなくなる。

 房子は多少の事情を友香本人から聞いている。けれど房子は自分の性格を変えることも、娘の病気を詳しく知ることもできない。

 房子にとっても、友香が戻ってきてからの毎日が苦痛であった。

 結局友香は一口も口に入れることなく、代わりに房子が食べた。

 片付けも房子が行った。それは友香にとって別の地獄の始まりでもあった。

 「おらぁ! おらぁ! ひゃひゃひゃ! きゃぁ、楽しい!」

 ガシャン! と食器が割れる音がキッチンに響く。房子の奇声も、ふすまで仕切られた友香の部屋まで届く。

 こういうときに、友香は最も深く自己嫌悪に陥る。

 自分さえ存在しなければ。自分さえ強ければ。母親が苦しまずに済んだのに。

 弱い自分のせいで。弱いまま生きているせいで。周りに迷惑をかけている。

 友香は少しでも自分というアイデンティティーを消そうと、食べ物を口にする代わりに、ベッドに蹲ったまま自分の手に歯形を刻む。

 自分を食べてしまえば、友香自身が消えると思ったのだ。

 けれど、現実は思い通りにいかない。手や腕に噛み付いたところで人間一人が消えるわけでも、現状が変わるわけでもない。ただ友香本人が傷付くだけだ。

 それに気付くことなく、加東母子の行為は止まらない。毎日、何かに傷が付き、何かが壊れる。

 そのたびに、増えるものもある。一つは恐怖。

 友香は生まれつき懸賞に当選する体質なのか、宅配員が頻繁に訪れる。

 家に響くインターホンは、以前の友香にとって楽しみであった。けれど今はただの恐怖でしかない。

 Kホテルの正社員だった友香は、病気を理由に雇用保険受給開始の延長手続きをしなければならない。

 それを知っている総務課長の下川が、会社の実状を隠蔽すべく友香の代理でハローワークに行くと言うのだ。

 それには、主治医の意見書を初めとした何種類もの必要な書類がある。

 その書類を預かりに、週に一度のペースで友香の実家を訪れる。

 下川は友香を訪ねる際、必ず電話をかけてくる。

 そういった理由で、友香は下川に責められるのではないのかと、日々怯えている。

 それでも友香には携帯電話を手放せない理由がある。救いを求めているのだ。

 房子の奇声が響く間も、友香は手や腕を傷付けながら携帯電話を開き画面をじっと見ていた。

 『加東……病気になったのは会社……というか、周りの支配人や主任のせいだから! 自分を責めたらダメ! ただ、自分自身の忍耐力とお客様に対しての対応や判断は身に付いたんやない? 何も学ばなかったわけではないと思うよ』

 『加東……加東は今一人で戦っているけど、バックには私と太田氏がいるからね! そーいぅ気持ちで常に思っているからね』

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