第2話一月

 雪のように真っ白な天井が友香ゆかを見下ろしている。白といっても約六時間前は灰色で、その四時間後、つまり午前七時は朝日が部屋を射し込み天井の一部が淡い虹色だった。

 体勢を変えずに窓を見ると、冷え込みの証である霜が跡形もなく消えている。

 友香は先月の初めに、夜から朝に切り替わる瞬間の情景を知った。夜中に眠ることがなくなったからだ。

 いや、できなくなったのだ。

 現在、友香は不眠症とうつ病を患っている。そのように、とある精神科医から告げられた。

 友香が病院を訪れた理由は、先月まで勤めていた会社にあった。

 友香は市内で有名なホテルにて、フロント係として働いていた。

 フロントといえば華やかなイメージを持つ人間が多いけれど、実際は宿泊客の情報を抱えた雑用係だ。

 すべてのホテルがそのような実態だとは限らない。けれど友香が先月まで勤めていたホテルではそうだった。

 友香はほぼ毎日上司ーー支配人の土田つちたとフロント主任の藤川ふじかわーーに叱咤され、人格否定をされ続けた。

 けれど友香は真面目な性格で、ひたすら耐え続けた。

 そして入社から一年半、手足のように扱われるうちに、友香の心が限界を叫んだのだ。

 友香の心と共鳴するように全身が震え、涙がいきなり流れ出た。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。

 現在は解雇という形で退職し、社員寮を引き払い実家のあるM市に戻っている。

 それ以降、友香は昼夜問わず眠れずに一日を過ごしている。ただ自分を取り囲む上下左右、前後六方の壁を眺めて。

 午前九時の現在、友香は母親の加東かとう房子ふさこが用意した朝食すら拒否している。

 実際は腹が鳴っているのだけれど、食べ物を見るとより不快な気分になるのだ。

 『あ! 加東さんがまたご飯を食べている! だから太っているんだよ』

 またしても土田の声が脳裏に甦る。一日三食が一ヶ月、これで何度目かはもう分からない。

 友香は世間一般でいうぽっちゃり体型ではあったけれど、極端に太っているわけではなかった。

 それでも支配人の土田は「痩せないと仲居に異動させる」と脅し、社員食堂にて「食べるな」と言い続けた。

 またチェックイン前のロビーでは、他のフロント係がいる前で、友香がフロントに向いていないと言葉を重ねた。

 その様子を見ても、フロント主任で友香の直属の上司にあたる藤川は、見て見ぬふりをした。

 藤川は自分の部下に助け船を出すどころか、手足、つまり道具のように扱った。ときには藤川自身が気に入っている他のフロント係の尻拭いするように友香に命じた。

 友香の体型に関しては、毎日体重を量り記録させた。

 他にも、宿泊客から好意で土産をいただいても、友香にだけ菓子が行き渡らなかった。

 中には友香に手を差し伸べてくれる人間もいた。森本もりもとゆきなという女性で、藤川の直属の上司にあたる。

 森本は身長百五十センチにも満たない小柄ではあるが、気が強く相手の立場や役職問わず間違いを指摘する。

 また、森本は七歳年下の友香を大変気に入っており、自分の仕事を手伝わせるという名目で土田や藤川から引き離してくれた。

 自分の菓子を分け与えたり、教育を放棄した藤川の代わりにフロントの仕事を教えた。

 また、友香自身も仕事面では森本を信頼していた。けれど周囲によって積み重ねられた猜疑心により、心の内を明かすまでには至らなかった。

 友香は知らぬ間に心を蝕まれていたということだ。


 朝食の拒否から一時間、友香はソファの上に横たわったまま体勢を変え続けた。天井、床を含む六方の板がスクリーンとなって友香に過去を見せ続けるのだ。友香はそれから逃げるようにうつ伏せ、仰向け、横向きと体を転がす。

 それでも過去は友香を追いかけてくる。

 友香は視界を遮るしかないと、瞼を閉じた。そのうち眠りに就くのを期待して。

 部屋が明るくても、瞼さえ閉じれば真っ暗になる。数十日眠っていない疲労を回復できるかもしれない。友香はそう思っていた。

 友香はソファの上でじっとしていた。


 午後一時、携帯電話が突然震え出した。音はならない。友香がマナーモードに設定しているからだ。

 二つ折りの携帯電話を開かないと、発信者が分からない。友香はバイブレーションと同時に起きた胸の動悸を抱え、そっと手を伸ばす。

 パカン、という音が鳴り、電話の発信者が判明する。携帯電話を持つ手がバイブレーションよりも小刻みに震え出した。発信者は友香のかつての勤務先Kホテルの総務課だった。

 友香は自分に電話がかかってくる理由を知っている。それでも友香は携帯電話自体まで恐ろしく感じた。

 だからといって電話に出ないわけにいかない。友香には電話に出るべき理由がある。

 「はい、もしもし……か、加東です」

 友香は首を絞められたように息苦しかった。名乗るだけでも、非常に困難なことだった。

 それでも相手は一切容赦しない。

 「加東! お前、ハローワークにどう説明したら、傷病手当の話になるんだ!」

 威嚇効果のある男声で、相手の顔が一瞬で思い浮かんだ。総務課長の下川しもかわだ。

 友香がKホテルに在籍していたころ、友香本人に威圧をかけていた一人だった。

 下川は携帯電話が勝手に飛び上がりそうな勢いで友香を責める。実は、下川は友香に、病気を隠し自己都合での退職だと告げるよう命じていたのだ。

 けれど不審に思った友香は、太田おおたという友香の数少ない味方の一人に相談した。

 太田はフロント係で唯一の男性で、かつてはN県で最大級のホテルに勤めていた。

 そのプライドの高さで、友香に良質な教育をしていた。ときには仲間を庇う姿により、友香にとっては仕事面での憧れでもあり、いざというときの盾でもあった。

 その太田は友香より十年長く生きているため、何か良い知識を持っていないか尋ねた。

 『加東、泣き寝入りする必要はない。日本には病気で働けないなりに生活できる手段があるんだ。その一つが傷病手当といって、会社に原因があるときに使える制度なんだ。労災だって請求できるぞ。ありのままをハローワークやM市の職員に言うんだ。いいか、加東。俺や森本はお前の味方だからな』

 その数日後、友香は病気で沈み重くなった体を這って、ハローワークやM市の就職相談所に向かい、太田のアドバイスに従った。また、これは精神科医の森本にも勧められたことでもあった。

 その経緯でKホテルの総務課の女性に、傷病手当初回申請に必要な書類、勤務最終月の勤務表と年間の月給表を電話にて請求したのだ。

 そして現在、下川の罵声に至る。

 友香はその恐怖を健康な人間の十倍以上感じ取る。だからといって下川に屈するわけにはいかない。Kホテルはもう、友香の生活を保証してくれないのだ。その上、病弱な母親の房子がいる。

 友香は首を絞められたままの感覚で無言を通した。すると下川は投げやりな口調に変わった。

 「分かった、分かった。お前の言う通りにすれば良いのだろう? 分かったから、早めに記入する書類を郵送しろよ」

 受話器はおそらく乱暴に置かれたのだろう。友香の携帯電話からブツッと弾けるような音が響いた。

 友香は全身から力が抜けるのを感じた。携帯電話を折り畳む気力もない。

 相変わらず眠る気にもなれなくて、友香はメールの受信履歴を眺めた。先月以降、友香にメールを送信したのはただ一人、森本ゆきなだった。

 森本は友香が発病する数日前に退職していた。別れの挨拶をするため会社に出向いて初めて、友香の病気を知った。

 その後九州から北陸のI県に移住し県内有数の旅館に勤めている。その傍らで友香を気遣うメールを送信し続けているのだ。

 『今は、自分の体を治すこと、それが先決やよ! それから先は、治して落ち着いたら考えたらイイ。人生はまだまだやり直しできるからマイナスに考えずに未来を考えた方が加東にとって一番! 今は、何も考えずにゆっくりしーや!』

 『加東、一つだけ言わせて。自分と太田さんは加東の味方だからさぁ! 覚えといて』

『会社は加東のことをなかったことにしようってしよるわけやね? ホントに腐った会社やね! ウチラは分かっているから! 加東のこと! 負けんなよ!』

 北風が強く吹いていた。

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