終章 乳毛が1本ありまして

 最後にひとつ、こんなことを恥ずかしげもなく書くのは女性としてどうなのかと思うが、人体の神秘を感じた乳毛について記しておこうと思う。


 その昔、私は左の乳輪の端に一本産毛が生えているのを発見した。大変細く薄い毛だったので、目を凝らさないと分からない程度のものであったが、見つけたからには気になってしまう。そこで私は、取り返しのつかない過ちだとは知らずに、その毛を抜き去ってしまった。


 すっきりした乳首の様子に満足していたのだが、そんな出来事など忘れたころに悲劇は起きる。産毛を抜いたところと同じ毛穴から、今度は黒々としっかりした質感の毛が頭を覗かせたのだ。なかなかの固さもある。どうやら抜いたことが刺激となって、毛根がパワーアップして蘇ってしまったらしい。


 黒い点がチョンと顔を出しているだけなので、おそらく他人が見ても言われなければ分からないだろう。しかし私は気付いてしまった。もう抜かなければ気が済まない。


 それからはイタチごっこだった。抜いても抜いても忘れたころに乳毛は顔を出す。何度命を絶たれようとも、そいつはしぶとく寸分違わぬ同じ場所から蘇った。「もう私はこの乳毛と生涯を共にすることになるのだろう。」そう覚悟してからは、穏やかな気持ちで彼の転生輪廻を見守ることが出来た。


 妊娠中も彼は幾度となく収穫された。しかし場所が場所なので、お腹が大きくなっていくほどに、ひとつ危惧されることが脳裏をよぎる。こんなところに生えていたんじゃあ、赤ん坊に迷惑がかかるかもしれない…産後はしっかり観察して、頭を出したらすぐ抜かなくてはならないなと、気を引き締め出産の時を待った。


 そしてついに赤ん坊がこの世に誕生し、私は母親となった。最初は慣れない育児に必死だったが、数か月もすれば落ち着き心に余裕が生まれる。「そういえば最近やつの顔、見てないな…」ちらりと思い出すこともあったが、他にやることがたくさんあったので、いつの間にか乳毛の事は忘れ去っていた。


 そうこうしているうちに半年が過ぎて、ようやく私は自分の体の異変に気付く。乳毛が、あのしぶとかった乳毛が、待てど暮らせど一向に生えてこないのだ。産毛すらも顔を出さない。生涯を共にする覚悟だった相手は、忽然と消えてしまった。乳輪の縁は静かに円を描き、遮るものはなにもない。


 最後に彼と会ったのはいつだったろう、まさかこんなに突然別れが来るとは思っていなかったので、思い出すこともできない。もちろん生えていない方が女として嬉しくはあるのだが、産後にこのような衝撃の変化が訪れようとは予想もできなかったので、気付いた時には雷を受けたような衝撃が走った。乳毛は赤ん坊のために、その身を引いてくれたのだ。種を残したいという本能は、あんなにしぶとかった彼の息の根をあっさり止めてしまった。これぞまさに人体の神秘!なんと興味深い出来事であろうか!


 もしかしたら母乳育児が終われば、乳毛は再び命を得るのかもしれない。在りし日の姿のままなのか、それとも元の産毛の姿に戻ってしまうのか、現在の私には想像もつかない。もうこれ以降、永遠に出会うことがなければそれはそれで結構なのだが、もしも再び対面することができたなら、優しい気持ちで「おかえりなさい」と、声をかけてやろうと思う。

 


 

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