第20章 神よこの子を寝かせたまえ
赤ん坊は寝るのも仕事の一つであるのに、なかなか寝付くまでがしぶとかったりする。全く職務怠慢である。抱っこしながらゆらゆら揺らして寝かしつけようとしていても、定期的に薄目を開けてこちらをチェックする。「心配せずともちゃんと抱いているから寝てくれよ…」という嘆きは届かない。
深夜、授乳を終えてもなかなか寝てくれずにほとほと困ったことがあった。くりくり目を動かしては天井の照明を熱心に見つめる。なんとかこの瞳を閉じることは出来ないものか。
そこで私ははたとドラマのワンシーンを思い出した。上司の腕の中で、目をかっと見開いたまま息を引き取った部下。沈痛な面持ちでその額に手を置き、そっと撫でおろす上司。すると部下の目は閉じられ、まるでその表情は安らかに眠っているかのよう。
これだ!これしかない!神よ、わが右手に力を!
私はありったけの沈痛な面持ちでそっと我が子の額から下に向かって手をなでおろした。
くりん。目が合う。
再びなでおろす。
くりん。目が合う。
一瞬閉じるものの、むしろなでおろす前より大きく目は見開かれて「なにすんねん」とでも言いたげにこちらを見つめてきた。大失敗である。生きている人間にはこの方法は通用しないことが分かった。それでも諦めきれずに眉の上に指を置いて無理やり閉じさせると、負けずに力を込めて見開いてくる。無言の攻防が続く。もしこの光景を旦那が見ていたら、「かわいそうだからやめてあげて!」と非難を浴びたことだろう。
この攻防に楽しさすら感じ始めたころに、ふと、逆向きに撫でたらどうなるのだろうと興味が湧いた。湧いてしまったら試さずにはいられない。そっと目元を覆い、上へ撫で上げる。すると今度は流れに逆らい必死に閉じようとするではないか!死んだものとは逆に、生きとし生けるものは流れに逆らう性質だったのだ。この反射運動を利用しない手はない。
それから研究を重ね、眉間の間を人さし指で下から上へ撫で上げることが、最も小さな動きで効率的に目を閉じさせることが出来るという発見をした私は、閉じられた瞼が開くよりも先に、畳み掛けるように撫で上げ、ついに赤ん坊を眠らせることに成功した。反射が意志に打ち勝った瞬間である。
この「眉間撫で」はその後も、眠りそうで眠らないもどかしい状態の時にかなりの効力を発揮し、私を助けてくれた。凄い発見してしまったわと、いささか興奮していたのだが、後日予防接種に行った時に雑談した看護士さんの話によると、この方法は保育士さんの間では当たり前に行われている割とポピュラーなものであることが発覚した。私の発見などは保育士さんにとっては常識であったことに、少々落胆したが、まぁ自力でたどり着いたことに意味があると思うことにして現在も「眉間撫で」にはお世話になっている。
赤ん坊が眠らない話でもう一幕、神に祈る場面がある。抱っこで寝ついてくれた時に、しめしめと布団におろした瞬間に覚醒して大泣きする、いわゆる「背中スイッチ発動」からの抱っこ寝かしつけ無限ループ。これを引き起こさないために、我々は細心の注意をもって、息を詰めて神に祈り、赤ん坊をおろすのである。しかし赤ん坊のスイッチの敏感さは神の力をも凌駕する。
しかしこのスイッチに私の念波が打ち勝った出来事があった。寝付いたのを見計らって、そっと置いた瞬間に「ふにゃ!」と泣き始める赤ん坊。いつもはがっくり肩を落として天を仰ぐところであるが、この日は違った。畜生、もう抱っこしたくないぞと、諦めきれなかった私は、とっさに傍らにあったバスタオルを赤ん坊の体に被せ、その上から赤ん坊の両手を握り込み、全神経を集中させて念を送り込んだ。
眠れ―眠れ―眠れー!頼む!眠れ――!!
すると徐々に泣き声は弱まり、赤ん坊は寝息をたて始めたではないか。私の諦めない心が、スイッチをねじ伏せたのだ。
この方法は、成功率がそこまで高くなかったが、眠ってくれたらラッキー程度の認識ならば十分に試す価値はあった。無限ループの合間の息抜きの運試し。情熱が通じた時の喜びは、思わず小躍りをしたくなるほどである。
最強の寝かしつけ・添い乳法(母子とも横になった状態で乳を吸わせるスタイル。乳を飲みながら赤子は力尽き、そのまま入眠が可能。月齢の低いうちは上手くできなかったりする)ができるようになるまでは、ついつい寝かしつけ時には神に祈りがちだ。しかしながら赤ん坊の寝かしつけでは、神に祈るよりも、観察力と好奇心、諦めない心がものをいう。結局運の要素も大きいのだが、他力本願では何も生み出せないと悟った深夜の私であった。
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