第8章 ドキッ!会陰切開レポート

 先ほどからチラチラ出てきた単語、会陰切開。会陰切開というものを改めて説明すると、膣から出てくる赤ん坊の進行を最後に邪魔する、膣口と肛門の間の「会陰」と呼ばれる部分をハサミでぱちんと切って、外の世界への扉を無理やり広げる処置のことである。まあ要するに、赤ん坊の頭が通れるサイズにお股を切るのだ。字面だけ見ても、説明を聞いても、とてつもなく恐ろしい印象を受ける。初産婦の方は陣痛の次くらいに、これに恐怖を感じるのではないだろうか。


 怖い怖いと言っても男性の方はイメージが湧きにくいと思う。会陰切開の恐怖感として近いものを解説するならば、まず鏡を見ながら舌をぐっと上にあげていただきたい。すると舌の真ん中に下顎とのつなぎ目のひだが見えると思う。それを奥までハサミでぱちんと、ばっさり切られるところを想像していただきたい。そのイメージが恐怖感としては似ているのではないかと思う。


 医療機関やお産の内容によって多少勝手は異なるとは思うが、ここからはどのように私のお股が切られ、どのように回復していったのかをお届けしたいと思う。



 分娩台でひーひー言うのが佳境に入ってきたころに、「赤ちゃん出やすいようにここ切りますねーまず麻酔の注射をしますー」と注射器を持った医師にお股側から声をかけられた。一応律儀に「はい~」と返答。注射は特に痛かった記憶はない。2、3回さらにひーひーいきんだあとに、今度は特に声掛けもなく切られたが、助産師が場所を少し譲り、医師が何やらごそごそやってまたすぐ離れていったことで、あー今切られたんだなーと分かったほどで、局所麻酔の甲斐あってか切られた感覚もほとんどなく、痛みも感じなかった。(腰から下腹部あたりの陣痛の痛みはすごかったが、出産の間中、股や膣口自体が痛いと思うことはなかった。)



 そして赤ん坊誕生、直後のお股はボワーンとした感覚で痛みなどは無し。我が子との対面が終わると、医師がお股側にどっかと座り、お股の裂け具合、膣内の損傷チェックをして、切った会陰を縫っていく。私は特に目立った損傷がなかったらしく、会陰の傷だけ縫いますという説明を受けた。縫うにあたって再び局所麻酔の注射が打たれる。「痛かったら注射足すので気軽に言ってくださいね」と言われたが、特に追加の必要はなかった。痛みはないのだが、縫われる感覚、ぐっと針と糸が入ってズズッと引っ張られる嫌な感覚はバッチリあって、何とも気持ちが悪かった。


 さらに問題は意外と縫うのに時間がかかることである。始めのうちはお産について「早かったですねー」などと感想を言い合ったり、縫っている糸について私が質問して答えてもらったり、胎盤をじっくり見せてもらったりと、それなりにやることや喋ることがあるのだが、そのうち話題も尽きてくる。しかしお股処置はまだ終わらない。気まずい。


 普段なら何か話題を振ったりして場を繋ぐところだが、お股の向こうにいる人に話しかけるのはなかなか気力がいるし、いくら安産だったとはいえ少々疲れが出てきていたし、そもそもこの場に合う気の利いた話題が思い浮かばないしで、喋るのが億劫になってくる。もう、心を無にして天井を見つめることで気まずさを紛らわすしかなかった。先生も話しかけられずに縫った方が集中できるだろう…お互いのために私は「出産で精魂尽き果てた人」を演じたのであった。



 さて、気まずい時間を乗り越えて先生は退場、念のために分娩室で約2時間横になったまま様子を見て、最後に助産師さんの指示を受けてトイレに行く。出産直後から、一反木綿みたいな巨大な長方形の生理用ナプキンのようなものを股にあてがっていたのだが、それを交換・出血量のチェックをしてもらわねばならないのと、排尿にチャレンジせねばならないためだ。どうも出産直後というのは「おしっこ行きたくなってきた!」「おしっこ出すぞ!」といった排尿に関する感覚が麻痺しているものらしく、溜まっているのに溜まっていることが分からない、便座に座っても出ないといった現象が起こりやすいそうだ。どうしても出なければカテーテルを入れるなどの措置が必要になってくる。


 ここで会陰切開を終えた者は、早くも最初の試練と戦わねばならない。そう、おしっこがしみる恐怖である。さっき縫ったばかりの傷口の至近距離位置から、尿を放たねばならないのだ。


 私は助産師さんの介助なく一人でトイレに入れたのだが、まず、血に染まった一反木綿をそっと外し、後でチェックしてもらうために所定の位置に置く。さてお次はいざ排尿!と臨んだのだったが、どうしたことか、半日以上トイレに行っていないのに、「おしっこ出したい欲」が全く湧かないのだ。出る気が全くしない。軽い衝撃と興奮の中、私はひとまず一呼吸して前傾姿勢をとった。少しでも会陰を守るためである。そして膀胱に意識を集中…力を入れると傷が裂けそうで恐ろしいので、とにかく精神の力で排尿を促す。するとぎこちなく、勢いのない尿がチョロチョロとでてくる。幸い会陰の傷に障ることもなかったので一安心であった。


 排尿を終えても、特にスッキリした感じもなく相変わらず感覚は麻痺していたが、気にしていても仕方ないので次の難所に挑む。「股を拭く」である。出血を伴う出産、さらに切って縫うという外科処置をした直後から無造作にトイレットペーパーで局部を拭くわけにはいかないので、ここで助産師さんから渡された「清浄綿」という、湿った脱脂綿を取り出す。ばい菌が入らないようにしばらくはこれをトイレットペーパー代わりに使わねばならない。恐る恐る股に脱脂綿をあてがう。気のせいかいつもより腫れているような感触。そのまま拭き進めると、糸、糸、糸!思ったより太い糸とひきつれた傷の感触が直に手に伝わる。ひいっと声をあげそうになるのをこらえてなんとかミッションクリア。精神的にかなり疲れるトイレタイムであった。



 ようやく病室に戻り、見舞いの家族も帰って一人になった頃には、私はかなりぐったりし始めていた。基本的に個室をあてがってもらえる病院だったので、ここで会陰部がどんな姿になっているのかこの目で確かめたかったのだが、疲れと痛み(会陰だけでなく、子宮が収縮する痛みがかなり辛かった)が気力を削いでしまい、さらに微熱も出て体を動かすのもしんどく、おまけに出産後からずっと悪露と呼ばれる子宮からの出血が続いていたので(量は減っていくが約一か月続く)、とてもお股を見ることは叶わなかった。


 そんな状態だったが、出産を終えての興奮が鎮まらずに眠ることが出来ず、お腹と股の痛みにひーひー言っているうちに、いつの間にか朝が来た。夜間に前傾姿勢での排尿も板についてきて尿意も感じるようになっていたのだが、なんとここで普段から便秘の私に便意がやってきたのだ。臨月に入ってからは特に便秘がひどかったので、出そうならぜひとも出してしまいたかったのだが、なにぶんお股に傷を抱えた女である。小便の時とは比べ物にならない緊張感がトイレの個室に満ちた。


 自分に言い聞かせる。肛門と膣は近いといえど別部署である。排便時の力み程度で傷が裂けるだろうか、いや、そんなに我が会陰は弱くないはず。私は先生の縫合力を信じる!



 最初はゆっくり静かに、そのうちこれはいけると確信した私は、力強く一気に排便を成し遂げた。会陰は驚くほどびくともせず、痛みもなかった。



 少々お見苦しいトイレ事情を披露してしまったが、出産翌日は縫合部の痛みの為ゆっくりとした移動速度、座る時には円座クッション、トイレでは前傾姿勢、お股を庇いながらの生活であった。私の場合は出産から2日後には痛みも落ち着き、退院する頃には円座クッションから卒業できたが、出血はまだまだあったので、結局会陰部を目視確認できたのは退院してから2週間は経ってからだった。

 



 私が先生からの聞き出した前情報によると、糸は抜糸の必要のない溶けるタイプのもの、色は青。見た目はグロテスクに見えるかもしれないが、ひと月もして糸が溶けたら綺麗になりますよとのこと。どれどれとさっそく鏡を覗きこんだところ、私の裁縫箱の中の綿糸より一回り太くてしっかりした青い糸が、すさまじい存在感を放ってお股に這っていた。結び目から飛び出した糸が毛虫のようで、よりグロテスクさを醸し出す。長さにして約2.5センチ。産前のイメージでは膣口から肛門に向けてまっすぐ切られるのだろうと思っていたが、私の場合は左斜め下・時計でいう七時の方向に切開が行われていた(後に調べたところ、この斜め切りが今のスタンダードであるらしい)。流石の私もあまり長時間観察したくなるものでもなかったので、ざっと確認後、すぐさまパンツを履いた。


 この糸は先生の言うとおり、一か月後には影も形もなくなっていた。しかしながら、ひと月も苦楽を共にした毛虫の位置はなかなか忘れられないもので、今でも懐かしく思い起こされるのであった。

 


 会陰切開は経過さえよければ痛みもすぐ落ち着くし、コツをつかめば排尿排便も問題ないので、そこまで恐れることはないな、というのが私の感想である。もちろん個人差があるので皆がそうとは限らないが、必要以上に怯えなくてもよいことをお伝えして、この会陰切開レポートを終わろうと思う。

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