第12章 情熱の老婦人

 噂には聞いていたが、赤ん坊を連れて歩いていると、とにかくよく人に話しかけられる。特にほとばしる情熱をもって距離を詰めてくるのは、もう孫も赤ちゃん期を脱してしまった世代の老婦人である。どうも熱い視線を感じるなあと思ったら、だいたいおばあ様がこちらに向かって笑いかけている。


 老婦人と他大勢との一番の違いはその機動力である。大多数の人は、赤ん坊が近くに来た時やすれ違う時にニコニコ話し掛けてくるのだが、老婦人方はどんなに距離があろうとも、視界に捉えたら離さない。銀行では、離れたソファから杖を突きながらもどんどん距離を詰めてきて、最終的に赤ん坊の顔が見える位置まで回り込む老婦人もいたし、ゴミ捨て場では、先にごみを捨て終わっているのに、私が到着するまでじっと佇んで待ち構えていた老婦人もいた。どうもずっと視線を感じるなと思ったら、斜め後ろから話し掛けるチャンスをずっと伺いながらついてきていた老婦人もいたりで、とにかく老婦人方は赤ん坊が大好き!なのである。


 大学生の孫がいるという赤ちゃん好きな老婦人は、「そのうちお孫さんが御結婚されたらひ孫に会えますね」というこちらのコメントに、「もうお嫁さんはいらないから赤ちゃんだけ連れて孫が帰ってきてくれたらいいのにー」というとんでもない回答をしてくれて、心の中で「それどんな修羅場!そいつは無理な願望ですよ!」とツッコまざるを得なかった。



 そんな彼女たちの話し掛け鉄板ネタは、「夜眠れているか」と「おっぱいは出ているか」、この2つである。特におっぱいについては、母乳教の信者が多い世代なので、出ていると答えるととても安心した顔になり「やっぱり母乳が一番よね」という決め台詞を放つ。私は母乳の出が良いからいいけれど、粉ミルク育児をしていたら気まずいなぁと毎回思う。


 とある老婦人には「よく肥えてるわね!母乳?そう、やっぱり!そうだと思ったのよ!やっぱり母乳よね!いいこといいこと!」と捲し立てられてしまったのだが、今の粉ミルクは昔と違って良質なのでむしろ肥えやすいんですよーと、よっぽど訂正しようかと思った。どうやら「粉ミルクはかわいそう」「母乳は正義、粉ミルクは悪」という認識の方が少なからずいるようで、かといって見ず知らずの老婦人に説明するのも面倒でそのまま別れてしまうのだが、次この老婦人と会ったミルク育児の若いお母さんが悲しい思いをしたら嫌だなぁと、いつも複雑な気持ちになる。ミルク育児をしているお母さんに話しかけた場合は、もしかしたら「ミルクでも元気に飲めば問題ないわよね!」と主張を翻して接してらっしゃるかもしれないが、母乳の出を聞かれること自体にストレスを感じるお母さんもいるはずなので、話し掛け鉄板ネタが時代とともに変わってくれることを切に祈る今日この頃である。

 

 

 母乳ネタに関してはちょっとしんどい時もあるが、赤ちゃんをただ愛でるだけでなく、育児の酸いも甘いも知り尽くした経験のもとで、「大変だろうけど頑張ってね」と温かい応援の声を最後にかけてくれる人が一番多いのも老婦人方である。先輩方に見守ってもらい、応援してもらえるのはやっぱり有難い。


 


 とにもかくにも老婦人の情熱と機動力は舐めてはいけない。高齢世帯の多い地域にお住まいの方で用事があって出かける際は、話し掛けられて足止めを何度か食っても焦らなくて済むように、くれぐれも時間に余裕をもって出発することをお勧めする。

 

 

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