第6話 浸透
「織部さんのおっしゃってた2つのサイト、決行の前に止めてきました! 関係者も出てきてます。ワケありの人が多くて、まだ整理できてないんですけど、いろいろ分かりそうですよ」
ありがとうございます、と理瀬は言った。とても嬉しそうだ。
「……?」
はて。2つのサイト?
「決行日が今日になってた自殺サイトと、まだ打ち合わせ中だった自殺サイト。昨日、織部さんが身元を割ってくださったじゃないですか。自分の大仕事を忘れるなんて」
「大仕事……? ああ、忘れてた」
希榛の頭の中は北嶋のことでいっぱいだった。
「簡単だった。最近、以前に比べて仕事がしやすくなっている気がする」
「効率のいい仕事の進め方、見つけたんですか? 教えてくださいよ」
「いや、俺のやり方じゃなくて……」
実際、警察全体でも検挙率は上がっている。それは、警察が優秀になったというだけではないと希榛は思っている。
警察は多分、優秀になった。しかしそれと同時に、犯罪者側の質も変わってきていると考えられる。それはまだ、推測以前に想像の域を出ていないので、理瀬にも言えない。
「でも確かに、なんか変わってきてますよね。相変わらずネット犯罪は多いんですけど、数年前まではネットニュースだけじゃなくテレビでも時々話題になった、《暴言書き込み》が激減してるんですよ」
暴言書き込みとは読んで字の如く、掲示板やSNSなどに他者への誹謗中傷から殺害予告までの、暴力的な書き込みをすることだ。
顔も性別も年齢も分からず、誰でも知らない誰かと交流できる以上は、人間心理として、対面時には絶対に言えないようなことも文字として簡単に言えてしまうものなので、下品な言葉も物騒な言葉も溢れていた。
名誉棄損や個人情報の流出、書き込みがもととなる殺人事件を防ぐのも、希榛たちの仕事だ。
最近は、書き込み関連の仕事の件数が減っている。相変わらず過激な言葉が飛び交い、議論も交わされているものの、警察が動くほどの事態には滅多にならない。
「世の中が、ちょっとずつよくなってきているんでしょうか。まあ、まだたかが書き込みなんですけど」
「……そうか?」
「いや、まあこんな変化、ネットをずーっと見てる私たちみたいな人にしか分からないことかもしれませんけど、それでも今は、世論の中心はネットですし」
「いや……」
希榛が疑ったのは《たかが書き込み》の部分ではなく、《世の中がちょっとずつよくなってきている》の部分だ。
ネットにおける暴言書き込みがゼロになった社会は《よい社会》なのか。
もちろん、殺害予告など犯罪につながるものや、個人を不必要に傷つけるものはあってはならない。
過激で暴力的な表現を暴言書き込みと呼ぶとして、それがゼロになった社会とはどういうものなのか。
そもそも暴言とは何なのか。これは良くてこれはダメだと、誰が決めるのか。ゼロにするには、暴言の発言者になんらかのペナルティがなければ実現不可能だと思う。ならば法規制だ。
そこまで細かい法律を誰がどうやって作るのか。発言者はどう特定されるのか。希榛でさえ、橋本を見つけるのに数日かかった。本人が分かりやすくさまざまなところに証拠を残したからだ。IPアドレスがあるので自宅や携帯の場合は単発の書き込みでも追えないことはない。ネットカフェなどでも、監視カメラ映像と店の記録を照合すれば特定はできる。しかし、膨大な人数をもって24時間体制でずっとそれを続けるのは現実的ではないし、完全なる監視社会にしてしまってはネットの情報媒体としての存在意義が失われる。《表現の自由》の保障とも相反する。現行でも似たような法律はあるが、定義と方法がどうしても曖昧になってしまい、結局は有意な効力を発揮できていない。そもそも、性を含む身体的、物理的、または金銭的な問題と、ネットの書き込みのような精神的、観念的な問題とは十羽一絡げにはできない。はっきりとした線引きもできない。したとしても、すり抜けることは容易だ。
そんな複雑かつ繊細な問題に、明らかな改善の兆しが見えるとすれば――
「……織部さん?」
「……ん」
「いつも無口ですけど、今日は特段に無口ですよ。あと、いつにも増して顔が恐いです」
「俺は普段から顔が恐いのか」
「はい」
ずばりと言い切られてしまった。しかも真顔で。
「……気をつける」
「ほら、その顔がすでに恐いです」
そう言われると難しく、もうよく分からなくなってしまう。そして結局は無表情になる。
北嶋徹の捜査資料はまだ資料室にはなかった。久原の資料をもう一度見ようと思ってその場所へ行くと、あったはずの箱がなくなっていた。
資料室から出るとそこに、山中の姿があった。
「資料、なくなってましたね」
「……ええ」
「僕、もうやめようと思います、調べるの」
山中の顔はなぜか晴れやかだ。
「どうしてです?」
「多分、触れちゃいけないことだからです。こんなに早く捜査が打ち切られた時点で、それは明確だった。僕らが勝手に嗅ぎまわることすら、いけないことなんです。捜査資料がどこかに行ってしまったのは、これ以上触れさせないため。久原くんには悪いけど、僕は彼のために命を懸けることはできません。織部さんはなおさら、彼とは関係ないはずです。考えなくていいことは、考えないほうがいいと思います」
はっきりとそう言って、会釈をして山中は去っていった。以前のオドオドとした様子もなかった。
それより気になったのは、古いデザインのあの丸メガネをかけていなかったことだった。
久原の事件は、誰かの手で隠されようとしている。警察では、上層部の都合により捜査員の行動が制限されることは珍しくない。
だが今回は、希榛にもその理由が分からない。捜査員の失踪は確かに失態だが、そこまで徹底して隠さなければならない理由がまだ見つからない。
次の休日、希榛は北嶋徹に会いに行った。まだ裁判になっていないが、証拠は揃っているし自白も取れているので、有罪は確定だ。犯行内容からしても死刑は確実だろう。
接見室に入ると、真っ白な短い髪のTシャツ姿の若者がそこにいた。肌も日光に当たっていないのか白い。
顔は整っている。全体的に線が細い。しかし、後で顔を思い出そうと思っても難しいのではないかと思えるような、特徴のない顔といえた。
年齢は希榛より上で28歳。椅子に腰かけた希榛をぼんやり眺めたあと、急に身を乗り出してきた。
「あっ!」
「……えっ」
「きみ、もしかして織部希榛くん!?」
北嶋は目を輝かせて興奮している。
「そうだが、俺を知っているということは……」
もちろん会ったことはないし、逮捕されたばかりの北嶋にまで名が知られるほど有名でもない。
昨日の橋本の証言中の、『こっち』とか『元の場所』という言葉から考えると、可能性はそれほど多くない。
「……Spiegelでもやってたのか」
「そう! さすがだね、希榛くん。当たり前だけど、あっちのキハルくんとはまた印象が違うねえ」
Spiegelの中のキハルは、希榛の構築した世界に合わせた、サイボーグの姿をしている。
「キハルくんは、何でも分かっているような顔をして、いつも意地悪な顔で笑ってたよ。嫌な奴だけど、頭はよくて好きだったな……。案内人のフィーユちゃんもかわいいし」
キハルはSpiegelの中で、自由に動き回っているようだ。
「おれの世界の芸術を、よく理解してくれたよ。『実にSpiegelらしい楽しみ方をしている』って評価してくれたんだぁ」
北嶋はなんだか夢見心地で、間延びした喋り方をする。
「ねえ、あの子がきみの作った《自分》ならさあ、現実のきみだっておれの芸術が理解できるんじゃないかな。ここには無粋な奴しかいなくて、まともに話もできないんだよねぇ」
「芸術……。美形を選んで殺し、死体を刻んで繋ぎ合わせることをそう呼んでいるのか?」
「違うよ」
北嶋はにっこりと微笑んで否定した。
「いくらきみでも、この時点ではまだ分からないみたいだね。でも他の連中とはやっぱり違う。奴ら、おれが美しさや芸術の話をしようとするだけで、『そんな
ものが芸術であってたまるか』とか言って遮って、聴こうともしないんだぁ。おれは頭がよくないけど、殺人自体に快楽を求めるようなゲスどもとは一緒にしてほしくないよ。《死》によってもたらされる美なんて一瞬なのにさぁ」
ふてくされたような顔で、そのときのことを思い出しているのか、ため息をつきながら言った。
「でも考えてみたら、《時間》とか《動き》がある以上、この世界では美は一瞬のものでしかありえないんだよねぇ」
「その点、Spiegelには美しさを劣化させる時間の流れも、その形質を変えてしまう動きや外部の力もない、というわけか」
「うんうん。まさにその通りだよ。やっぱり同じような体験をしてると話が通じやすくていいねぇ」
まるで同好の志を得たような満足げな顔をされたが、そこまで思われても困る。希榛は相手を理解しようと話を合わせているだけで、北嶋に同調しているわけではないのだ。
「Spiegelらしい楽しみ方、か。お前はお前の芸術にのっとり、現実では成立しないような美しい世界を作ったんだな。とくに人間の美しさに力を注いだ」
「そうなんだよ。おれはね、美しい人間っていうのは人種も性別すらも超えると思っているんだぁ。キリスト教の天使なんかがそれに近いかな。おれは神様は嫌いだけど、あの超越感は好きだねぇ。だからさ、おれの世界は天使みたいな、キラキラした無性別の子たちでいっぱいだった。おれは、そこしか知らなかったんだよ……」
そこしか知らなかった。その言葉で、ある程度合点がいった。
「――お前は、入れ替わったキャラクターのほうか。オリジナルは今もその世界にいるんだな」
「うん。さすが、キハルくんを倒しただけはあるね。Spiegelのルールを知ってるんだ。……おれは、あの世界でオリジナルを殺した。そういうふうにできてるからね。本当はおれだって現実なんかに出てきたくはなかったけど、仕方のないことだったんだ」
「お前は、現実世界でお前の理想を追い求めることができなくなった。現実には、天使のような人間はいない。それならせめて、近い存在を探すしかない、と」
北嶋は、黙って微笑んだ。希榛はそれを肯定と受け取る。
「生きた人間を現実ではない存在にするにはどうするか。生きてないモノにしちゃえばいいんだよぉ。だから、彼らを作品にしちゃったんだぁ。それはそれで、今までにない芸術だった。死ぬ瞬間の人間もそれなりに美しいし、おれは満足だよ」
「だがお前は、もう二度と活動できない。おそらく、猟奇殺人事件の犯人として死刑になる」
それでも北嶋は、笑顔のままだ。今の北嶋にとって、自分の体も命も自分のものではないからだろう。
「……久原祐輔という刑事を知っているな?」
北嶋は首を傾げた。
「2週間ほど前まで、お前に何度か接見に来ていた若い刑事だ」
「ん? ああー、そういえばいたねぇ、熱心におれの話聴いてたおにいさん。なんかすごく興味持ってたみたいだったなぁ」
久原のノートにも、北嶋の話は細かく書かれていた。
「話を熱心に聴いてくれた人間のことを、忘れていたのか」
「うん、だって美しくなかったから。おれ、美しくない人の顔って覚えられないんだよねぇ。ずーっと、誰だか分かんないで喋ってたや」
あはは、と北嶋は笑った。
「希榛くんに言われて思い出したけどさ、あのおにいさん、自分の顔の話にはとくに興味を持ってた。おれの顔もさ、追求する美しさとは程遠いから。鏡でじっと見てると、自分の顔が嫌になってくるんだぁ。細かいところまでよーく見ると、それぞれ歪んだところがはっきり分かる。それが組み合わさって、こんなつまんない顔になる。それは毎日、鏡をみるたびにそこにあって、鏡を見てないときにもそこにある。他人にも見られてる。理想とかけ離れた地味な顔。嫌だねぇ、怖いねぇ」
そんな話を繰り返し聴いて、久原は精神に異常をきたすまでになったのだろう。
「だけど、おれは希榛くんのことは、こうして名前を覚えてた。キハルくんともだいぶ違うのに同じだと気づいた。どうしてか、分かる?」
いくら自分のことが分からない希榛でも、ここまで言われれば言葉の意味は分かる。ただ納得はできない。
「……ずいぶん変わった価値基準を持っているな、お前」
対して、北嶋はきょとんとした。
「どうして? 希榛くんは一般的に見ても美形の部類に入るよ。あっちのキハルくんに同じこと言ったら鼻で笑われたけどぉ。おれがイカれてるみたいに言われちゃったけど、心外だったなぁ。ほんとに自覚ないの?」
「俺は、お前が特殊な基準で判断しているようにしか思えない」
そういえば健吾にも同じようなことは言われていたが、健吾もまた変わり者だった。
「あっそ。じゃあおれの特殊な基準だと思ってくれてても別にいいけどさぁ、おれがもし捕まってなかったら、希榛くんのことは作品にしたいと思うね」
「そうか。逮捕されていてよかった」
北嶋はにやりとした。
「冷静だなあ。さっきからほとんど表情が動いてない。いくらガラス越しでも、殺人犯に『標的にしたい』って言われて怯えるそぶりも見せないなんてさ。そのきれいで揺るぎない顔が、恐怖や苦痛に歪むところが見たくなっちゃう。キハルくんはいくら脅しても一笑に付されるだけだった。笑顔もまあ、いいんだけどさ」
キハルは、Spiegelが希榛を分析して作り出した《理想の希榛》だ。どんなことにも器用に対応する力がある。脅しも誘惑も通用しないだけでなく、相手をうまく諦めさせたのだろう。
「なんていうか、希榛くんみたいな強い子って、嗜虐心をそそられるんだよねぇ。強そうに見える壁を突き崩して、絶望して泣いたり取り乱して怒ったりしてるところを見たい。自分でも気づいてないような弱みを引きずり出して心を折っちゃいたいなぁ。その姿にもまた、違った美の趣があるはずだよ……! ああ、こんなことならあっさり捕まるんじゃなかったなあ!」
目的は違うが、北嶋はキハルと同じようなことを言った。2人ともSpiegelのキャラクターだ。Spiegel全体が、希榛を絶望させたいという思いを共有しているということなのか。だとしたら、厄介な話だ。
「お前の本来の名前は何だ」
「んん?」
北嶋はわざとらしく首を傾げる。
「お前は、北嶋徹じゃない。Spiegelの中の存在だ。お前の名前を知りたい」
「興味持ってくれるんだ、嬉しいなあ。――僕はティー。世界の名前は《プルウィア》。きれいな場所だよ。できれば戻りたいなあ。ティーだってずいぶん美しい存在なんだから。ティーでいられる徹が羨ましいよ」
北嶋はSpiegelで入れ替わった自分に嫉妬し、同時に自分の世界のことを想ってうっとりしているようだった。
希榛は小さくため息をついた。
「……訊きたいことは訊けた。接見はこれで終わりにしたい」
「ええー、おれはもうちょっと話したいなあ」
「嫌だ。お前と雑談を続けるほど、時間も体力も余っていない」
希榛は疲れていた。北嶋徹という殺人犯に緊張していたわけではなく、普通に人と長く喋るのに疲れたのだ。
「そこまではっきり言われちゃうとなぁ。寂しいけど、これでお開きにしようか」
北嶋が係員を呼んで、接見は終わった。
やはり、北嶋と久原はSpiegelに関係していた。
自分でも無理やりこじつけているように感じたことはあったが、今回は読みどおりだった。
今のところ、希榛にとって一刻を争うような事態には至っていないが、これから新しい動きはどうせ出てくるだろう。それがどんなものであれ、簡単に混乱すれば思う壺だ。
気を引き締め、これまで以上にどんなことも見逃さない洞察力をもって臨む態勢を取ることにした。
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