第3話 接続

 目の前には、細いグラスになみなみ一杯の日本酒。そのグラスはさらに枡に入っている。

 どうやっても零す。うまく持ち上げられるわけがなかった。

 しかし、あん肝まで頼んでしまったし、いつまでも日本酒を眺めているわけにもいかない。意を決して、慎重に持ち上げてみる。

「織部!」

 零した。

「ああ……」

「何やってんだ?」

 声をかけてきたのは、同期の向井むかい誠治せいじだった。先日、希榛の住む寮の部屋を引き払った、元同居人だ。

「お前がこんなところにいるなんて珍しいな。あん肝と日本酒で一人飲みとか、渋すぎだろ」

「そっちは班の打ち上げか」

「いやあ、まあ、ミニ捜査会議みたいなもんだ」

 向井の顔は赤く、テンションも高めだった。

「元気か? 毎朝ちゃんと起きて、飯食ってるか?」

「俺は最初から一人で起きてただろう」

「そうだなー。お前の《寝起きお化け》を見られないのはちょっと寂しいな」

 《寝起きお化け》とは、寝起きの希榛の状態である。

 血圧の低い希榛は、目標の起床時間の30分前にアラームをかけて起きる。しかしすぐには動けないので、しばらくぼんやりと座っているのだ。その時間も含めた30分である。

 布団の上で膝立ちになって俯いて動かない。髪はぼさぼさで垂れている。

 夜明け前の暗がりでその姿を見た向井は悲鳴をあげた。

 そこからの、《寝起きお化け》というわけだ。

「寝起きの男なんか見ても面白くない。今は、起きたら横に彼女がいるんだろう? その光景のほうが、よほど価値があるはずだ」

「お前……こんな軽い話のときでも堅いな」

 希榛は日本酒を飲むのは諦めて、あん肝を箸で切って口に運んだ。

「っていうか、お前こそどうなんだよ。あの、隣の席の子。えーと、新也ちゃん、だっけ? かわいいんだろ? 何かないのかよ」

 肘で小突いてきた。よく分からないが痛い。

「はあ? 何かってなんだ」

「本気で分からないときの顔するなよ……。そりゃお前、恋愛的な発展とかだよ。隣の席にいりゃ、何かしらコミュニケーションは取るだろうが、いくらお前でも。まさか、同室一日目のときみたいに、ずーっと無言じゃないだろうな?」

 初めて寮に来て向井と顔を合わせた日、二人は何も喋らなかった。初登庁で緊張して疲れたのもあったが、人見知りの希榛は、やっと警察学校を卒業したのにまた他人と寝食を共にするのが嫌で、全く喋らなかったのだ。

 向井もまた話しかけてこなかったが、それは希榛があまりに恐ろしい顔をしていたからだそうだ。

「あのときのお前は、完全な無表情だった。怖いぐらいの」

 向井には、希榛が寮に住みついた幽霊に見えたらしい。警察学校では全く接点がなかったので、それが初対面だったのだ。

 二日目、《寝起きお化け》を見て完全に幽霊だと思ったが、その後無表情のまま寝ぼけて何か言葉を発したのを見て、人間であると確信したそうだ。

「今はそんなことはない。ちゃんと喋っている。二日前、昼飯の内容に口出しをされた」

「そんで、『仕方ないからお弁当を作ってあげます』とか?」

「……よく分かったな」

「マジかよ! で? で?」

「さすがに悪いから断った。そしたらいきなり怒られた」

「はああああ!? そりゃそうだろ、何やってんだお前!」

 頭をはたかれた。痛い。理不尽だ。

「それでお前、寂しくなってこんなところで一人酒か。つくづく不器用だなオイ……」

「…………」

 別に、寂しくなったからここに来たわけではない。

「しょうがねえ奴だなあ。こっち来て一緒に飲もうぜ」

 向井は、自分たちのいる座敷に希榛を連れていこうとする。

「ミニ捜査会議をしているんじゃなかったのか。そんなところに俺みたいな部外者が――」

「いいって。その話は煮詰まって流れたんだ。ちょうど間が空いてたところなんだよ」

 これはもう、連行される流れだ。

「分かった。行く。その前に一つ教えてくれ」

「何だよ」

「……この酒はどうやって飲むのが正解なんだ」



 希榛は、向井たちの係の席に招かれた。人数は6人。向井は希榛のことを、メンバーに面白おかしく紹介する。

「ああ、射撃場で倒れた子か。見てたよ。克服できた?」

 若い男が笑顔で言う。知らない顔だが、警察学校での醜態を見られていたようだった。

「いや……体質なので」

「そっかあ。どうしても刑事になりたかったんだねえ」

 係のメンバーはそんな希榛のことをバカにはしなかった。皆、あの地獄のような半年を乗り越えた仲間なのだ。

「向井の班ということは、強行の第4班ですよね。隣の班の人は、まだ見つかりませんか」

 希榛が切り出すと、全員表情を曇らせた。向井の上司らしき男が言う。

「俺らも、捜査の合間に手がかりを捜してはいるんだけど……今のところ全く。俺は、久原くはらのことは少し知ってたんだ。そこまで親しくはなかったけどね。あいつ、ある事件に関わって、少し精神的にこう、参ってたみたいで」

「どんな、事件なんです?」

 するとまた静かになった。凄惨な事件とは聞いている。犯人がわりとすぐ捕まったとも。

「犯人は逮捕されたのですよね」

「うん……。解決はした。ホシも、すごくおかしな奴だったよ。だって……」

 上司らしき男がまた言いよどんだ。

「言えないなら、教えていただかなくても――」

「いや、別に箝口令かんこうれいが出てるとかじゃないからいいんだけどさ、聞く? 食欲なくすよ」

「大丈夫です。その辺は鈍いので」

 希榛は、ホラーもスプラッターも平気だ。人が横で感涙しているときにケーキを食べられるくらい、感動しにくいタイプである。

「じゃあ言うけど、ホシは連続殺人犯だった。しかも若い男と女を一人ずつ、必ずセットで殺していた。それを4組やった。殺しの手段は毒とか一酸化炭素とか、外傷が残らないようなものだった。問題はその後だ」

 男は、顔を歪めながら言った。

「その死体を――バラバラにした。メスで、パーツを丁寧に、きれいに切り離したんだ。四肢だけじゃなく、鼻や耳や目や、性器や胸まで。細かく分けた。そしてそのパーツを、組み合わせたんだ。接続して一つの死体にしてしまった。それも、バランスよく美容整形みたいに。同年代で体格も似てる男女を選んでたんだ。そして、いちいちを作り上げ、公園の真ん中とか河原とか、目立つ場所に置いた。発見者は、不自然に整えられた死体と、採用されなかった余ったパーツの入った鞄を見つけるってわけだ」

 その鞄は高価なブランドもので、とても人の死体の一部が入っているようには見えないという。

 殺人にある種の芸術性を見出す、異常心理を持つ者の犯行だった。

 そして捕まったときには、自らの芸術に酔いしれ、満足して涙を流していたという。

「それで、久原はその死体を何体か見聞したそうだ。それから、なんだか言動におかしなところが出てきたみたいでね」

 そんな特殊なものを何度も見れば、精神に影響が出て当然だった。


「とくに、鏡を見て怯えたり、憤ったりしていたんだって」


「鏡、ですか」

 男は頷いた。誰も、喋りださない。

「ありがとうございます。……すみません、つらい話をさせてしまって」

 男は首を振った。

「いや、いいんだ。向井くんから、織部くんはなかなか鋭いところがあるって聞いたからさ、力になってもらえないかなって思ったところもあって」

「そんな話を……?」

 希榛が向井のほうを見ると、さっと目を逸らされた。以前、相談に乗って彼女との喧嘩を和解に持っていくことができたことなどを話したのだろう。

「――俺、門限もありますのでそろそろ失礼します。急にお招きしていただいて、ありがとうございました」



 希榛は寮に戻り、畳に寝転んで、体の火照りと全身が脈打つような動悸が収まるのを待った。

 酒には弱い。日本酒など初めて飲んだ。なみなみ注がれた酒は零すのが前提で、枡に零れた酒をグラスに戻して飲むなんて知らなかった。

 あの店にだって、偶然来たわけではない。

 食堂で昼食をとっていたら、4列前に向井が座っていて、あの店に来る予定であることが聞こえてきたのだ。

 希榛はよく、雑踏や電車の中の他人の会話を無意識に聞き分けている。レストランでは、周囲4テーブルの会話の流れをいつのまにか把握していたりもする。

 耳が良すぎることによる、盗み聞きスキルだ。嫌な特技だが役に立った。

 久原祐輔の話が聞けるとは思っていなかったが、刑事として、酒の席での情報収集とやらを実践してみようと思ったのだ。

 そしてとりあえず来たものの、やはり自分からは話しかけられず、しかたなく初めての日本酒とにらめっこしていたところ、あちらから話しかけられたというわけだ。


「鏡……か」


 Spiegel。ドイツ語で《鏡》だ。

 久原は鏡に、どんな恐ろしい、あるいは憎むべきものを見たのだろう。

 偶然だとは思うが、今の希榛には引っかかっていた。



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