第2話 類似

 Spiegelのことを考えていたら朝になっていた。

「寝るの忘れた……!」

 起きる時間になってからそのことに気づく。急いで朝食を食べ、準備して寮を出た。

 ちなみに、希榛は寮で一人で過ごしている。最初は二人部屋だったのだが、同居人が引き払ったのである。寮は門限があり、女性も入れられない。彼女がいる身には向かないのだ。

 もともと他人と共同生活するのが嫌でたまらない希榛は、これ幸いと一人を満喫している。警察学校時代は、半年とはいえノイローゼになるところだった。

 課室に出ると、何人かの同僚が心配そうな顔をしていた。

「大丈夫ですか? 織部さん。昨日よりは顔色もよさそうですけれど……」

 理瀬が誰かに昨日の希榛の様子を話したのだろう。研修だったので報告が課長や係長にも行っているはずだ。

 もう少し平静を装うべきだった。過剰な反応を見せれば、ますます敵は揺さぶりをかけてくるだろう。なにしろ、その敵は警察内部にも当然、潜んでいるのだから。

「ああ、もう平気だ。昨日はとくに疲れていたんだろう。よく寝たし、もう大丈夫だ」

「嘘ですね。目が真っ赤です」

 理瀬はジト目で見てくる。寝るのを忘れて徹夜してしまったのだから、目は充血しているだろう。目薬も持っていない。

「……このくらいで、業務に支障をきたしたりしない」

「ほんとですか? 織部さんって貧弱なところあるからなー」

 大学生時代までは確かに貧弱だった。一度、コンビニ強盗を取り押さえたことがあるが、火事場の馬鹿力だった。筋肉痛に悩まされた。

 しかし、警察官になるにあたって自分なりに鍛えたし、合気道だってそれなりに強くなった。

 とはいえ、がっしりと筋肉がついているわけではない。肌も白いし、貧弱そうに見えるかもしれない。

「そんなことより、新也あらや、あんたはどうだったんだ。セラピーの効果はあったのか?」

「はい。なんていうか、すごく懐かしい気分になりましたよ。風とか感じる気温とか、心地よくて。途中でウサギさんとか鹿さんとかも出てきて、かわいかったです。癒されました……」

 理瀬は、昨日のことを思い出したようでうっとりと目を細めた。

「昨日の研修は、職員に利用を促す周知の目的もあったみたいです。仮眠室に置かれるそうですよ。あと、一般のセラピーサロンやメンタルクリニックにもすでに配置され始めているんですって」

 理瀬のほうにはSpiegelの介入はなかったように見える。いや、すでに理瀬自身が入れ替わった後なのかもしれないが。

 どうしてもSpiegelのことを考えてしまう。希榛は軽く頭を振った。

「どうしたんですか? まだ、具合悪いですか?」

「いや。それより今、一般の施設にも置かれ始めたと言ったか」

「はい……。従来の催眠療法より簡単で需要も高いとか。どうかしたんですか?」

 理瀬はかくんと首を傾げた。

 希榛は、いくつかの施設のVRセラピー端末を調査したいと申し出た。許可は、意外とあっさり下りた。

 近場のメンタルクリニック3院の端末のログを調べた。VRセラピーは本来、問診や短いカウンセリングの後行われるものらしく、患者ごとにその内容は異なっていた。導入も、野原だったり森だったり浜辺だったりと、さまざまなシチュエーションが用意されているようだ。

 内容は、ただ平穏な情景の中を探索したり、理瀬のように動物のアバターと触れ合ったりと、穏やかなものが中心だった。

「……ん」

 その中で一つ、気になるものがあった。

 何度もセッションを重ねた患者のもので、小さなころの自分、いわゆる《インナー・チャイルド》に出会い、触れ合うというものだ。

 この概念は昔から、トラウマ克服などのために催眠療法において使われてきたものだったが、VRセラピーでは患者の脳内にとどまらず、想像を再現した映像が直接患者の目に見えるようになっている。セラピストが、患者とのやり取りと現在の患者の画像をもとに小さなころの姿を作成するのだ。

「似ている」

 そのやり方は、Spiegelのやり方に似ていた。

 ログを徹底的に調べてみたが、外部からの介入を示すような不自然なコードは見当たらなかった。



「……お昼ですよ」

「うわっ」

 真横から理瀬が低い声で話しかけてきた。時計を見れば、もう正午だ。

「ご飯はちゃんと食べましょうね、織部さん」

「分かっている」

「昨日も、昼と夜は固形栄養補助食だけだったじゃないですか。あれは補助であってメインにはならないんですよ。というか、あんなまずいもの、よく食べ続けられますね」

 食感はシャキシャキサクサクしているが、味は薄味だ。水分は必須である。

「あれが一番手っ取り早くていい。腹もちもいいし」

「食事は心身の健康のために大事なことなんですよ。おいしいかどうかも重要です。……仕方ありませんね。今度、私が……お弁当を、作ってあげましょうか」

 なぜか小声になりながら、神妙な顔で理瀬は提案してきた。

「弁当を? あんたが、俺に? そこまでの苦労をかけるわけにはいかない。分かった。明日からはもっとまともなものを食うから、心配しなくても――」

「じゃあ作りませんっ! もうっ!」

 いきなり怒られた。

「す、すまん。なぜ怒る?」

「分からないならいいですよーだ!」

 理瀬は、あっかんべーをして去っていった。

「久しぶりに見たな……」

 その様子を、同僚たちの一部はほほえましげに笑い、一部はものすごく睨みつけてきた。よく分からない。

 固形栄養補助食を食べ終わったところで、希榛の携帯が震えた。電話だ。相手は、久しぶりに見る名前だった。

 課室を出て、廊下で電話に出た。

『ハロー、希榛。久しぶりね。元気?』

「高……ルシリア」

『よろしい。ハイデントゥームのルシリア様よ』

 相手は、ルシリアこと高森たかもり琴音ことねだ。大学の同級生で、Spiegel事件をきっかけに知り合った。ルシリアはSpiegel内での名前だ。

 彼女はそこで死人の国『ハイデントゥーム』を統べる魔女として君臨していて、オオカミ男のシュタルクを下僕にして、ゴシックメタルバンドで歌っていた。

 そのときの楽曲は全てオリジナルだというから、もともと音楽の才能があったのだ。そして今は、Spiegelでのホームの名前をバンド名にして、ルシリアとして活動している。バンドはブレイクし、大人気だ。深夜アニメのオープニングにも採用されている。

 Spiegel内で会ったとき、本名で呼ぶと彼女は烈火のごとく怒った。それは今も同じらしく、希榛がつい苗字で呼んでしまうと不機嫌になる。

『今、お昼休みでしょ? 最近連絡してなかったから、元気かなーって思って』

「ああ、ちょうどよかった。俺も連絡しようと思っていたところなんだ」

『え、えっ!? な、何?』

 ルシリアはなぜか急に慌てだした。自分から連絡しておいてその慌てぶりは何だ、と思った。

「俺は相変わらずだが、お前はどうだ? 何か、変わったことはないか?」

『ない、けど……。どうしたの? 何かあった?』

 なんだか声のトーンというか、テンションが下がったように聞こえる。つい、いつもの詰問口調になってしまったからだろうか。

「いや、例えば、ストレスが溜まっていたりはしないか? どう解消している?」

『ストレスぅ?』

 何言ってんのよ、と言いたげな聞き返し方だ。

『そんなの、毎日思いっきり歌って叫んで踊ってるんだから、溜まる暇なんかないわよ。まあ、疲れはするけど。楽しいわよ。精神的にはすごく元気ね』

 激しい音楽の演奏や歌唱は、それだけでストレス解消になる。しかも客を喜ばすことまでできるのだ。

「その分では、セラピーなんかには通っていないわけだな」

『そりゃ、そうよ。希榛は、刑事さんだものね。難しいことを考えるのが得意とはいえ、なかなか大変よね。溜め込んじゃダメよ?』

 ルシリアはいつのまにか、ここまで人を気遣えるようになっていた。ほぼ初対面で怒鳴られながら殴られたのが嘘のようだ。

「俺はいいんだ。――オオカミ男にも、会っていないな?」

『はあ? オオカミ男? 何それ、事件の隠語?』

 オオカミ男と聞けばもっと違う反応をするかと思ったが、どうやら何も思い当たらないようだ。

「それならいいんだ。何かあれば、いつでも言ってこいよ」

『えっ……ちょっと、何よ、気味悪いわね。なんでそこまで私のこと――』

「仕事だからな」

 切られた。

 周囲の人の安全を守るのが警察の仕事だ。間違ったことは言っていないはずだが。








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