シュピーゲルⅡ
大槻亮
第1話 VRセラピー
それなのに、この生活安全部サイバー犯罪対策課捜査第三係の自席に待機しているのには理由がある。
「まったく、なんで日勤の日に深夜の研修なんでしょう……」
隣の席で同じく待機していた
理瀬は、今年配属されてきたばかりの新人女性捜査官で、希榛の一つ下の後輩だ。歳は25歳。
肩より少し上の栗色のセミロングヘアーはストレートで、毛先が内向きになっている。前髪は眉毛を隠すくらいで、目は髪と同じで茶色、そして童顔だ。白いブラウスに濃紺のアンサンブルが大人っぽいが、背伸びをしているかのようにも見える。しかもかなり小柄だ。どう見ても刑事には見えない。
「仕方ないだろう。これは研修なんだ。おそらく、ただセラピーを受けるだけでなく、それを利用した犯罪の想定もしておけということだ」
「なんだか、取ってつけたような研修ですよね」
「……あんなことがあったばかりだからな」
二週間前、捜査一課強行係の刑事が行方不明になった。
名前は
久原は、とある凄惨な殺人事件の捜査を担当しており、精神的にかなり消耗していたようだ。同じ係のメンバーがそう証言している。
捜索は続けられているものの、無事に見つかる可能性はないだろうと言われている。見つかったとしても、冷たくなった姿だろうと。
捜査員の失踪は大きな痛手だ。表沙汰にはなっていないが、家族への口止めもいつまで保つか分からない。
外部はともかく内部にはさすがに隠し立てできないが、噂が広がるにつれ他の捜査員たちの不満や不信感が高まる。
そこで、上層部としてはこうした事態を未然に防ぐための対策として、メンタルケアに力を入れることにしたのだった。
まあ、急場しのぎで取り繕っているだけのようにも見えるが。
セラピー研修は交代で時間を割り当てられているのだが、なぜか二人は夜勤の日ではなく日勤の日の午後11時に割り当てられてしまった。人事部のミスなのか意図的なものなのかは分からないが。
捜査第三係には他にも10人ほどメンバーがいて、夜勤のメンバーは黙々と仕事中だ。
希榛と理瀬の携帯端末が同時に震えた。
『
セラピーの準備が整いましたので、702会議室までお越しください』
「やっと順番が回ってきましたね」
「行くか」
二人が荷物を持って席を立つと、夜勤組は「お疲れー」と元気なく声をかけ手を振った。
希榛はやっと、ポータブル音楽プレイヤーのイヤフォンを耳から外した。
「さっきから何聴いてたんですか?」
希榛は無言で、プレイヤーの画面を理瀬に見せた。
「あ!《ハイデントゥーム》じゃないですか!」
理瀬の顔がぱっと輝く。
「知ってるのか」
「ファンです! っていうか、織部さんこそご存じなんですね。しかも聴いてるんですね。意外です」
ハイデントゥームは、最近ブレイクしたゴシックメタルバンドだ。ボーカルは女性だが歌もシャウトもしっかりしていて、ちゃんとデスボイスが出せる。楽器の腕もかなりいい。
「意外か? 今流行ってるだろう。さすがに知ってるぞ」
「いや……織部さんって、大きな音が苦手だから。あんな音のデカいバンドの音楽なんか、聴かないかなって」
「どうして俺が、大きな音が苦手だと思うんだ」
理瀬は遠慮がちに答えた。
「この前、雷が鳴ってたとき、織部さん、かなり怯えてたじゃないですか」
「見られていたか……」
希榛は大きな音が苦手だ。
昔は人が大きな声を出しただけで過呼吸になっていたが、さすがにそれでは刑事になれないと、トレーニングとセラピーに通った。
大きな音恐怖症は、過去のトラウマによるものではなく、体質によるものだと言われた。つまり、耳が良すぎるのだと。
それでも、通っているうちに少しだけましになり、警察学校で毎日号令をし、怒号を浴びることで今は怒鳴り声程度では動じなくなった。
しかし怖いものは怖い。雷は嫌いだし、銃声は今でも聞けば倒れる。
そのことで、警察官には向いていないと言われはしたが、それ以外の部分ではむしろ優秀だった希榛は、銃を一切扱わないこの部署に配属された。
「大きな音が嫌いなら、メタルなんか好きにならないと思うんですけど」
「音量を絞ってあったから平気だ。あんたと話せるくらいにな」
大音量で聴いてこそ魅力的なメタルを小さな音で聴くなど邪道な気はするが、仕方がない。
「いいですよね、そのアルバム。とくに《グッドナイト・ルーシー》」
「ああ。俺は《閉ざされた世界》も好きだ」
バンドの話をしている間に、会議室に到着した。
「では、まず椅子にお掛けください」
医療センターから派遣されてきた男性セラピストが、希榛と理瀬に着席を促した。それはリラックスできる安楽椅子だ。
「これを頭に被って」
そして手渡されたのは、仮想空間体験コンテンツ用のギアだった。
「織部さん、被ってみてください」
希榛は、大学生のときのSpiegel以来、ギアには触れていなかった。
しかし、嫌だからといってやらないわけにもいかない。理瀬はもう被っている。
希榛は仕方なく、ギアを被った。
暗かった景色が明転し、ガイダンスが入る。
『それでは今から、VRセラピーを体験してみましょう。まず、広く暖かな野原に、ご案内します』
その瞬間、そこは青空の下の野原になった。風も、草の匂いも感じる。
『ここは、さきほどまでの現実世界とは全く別の世界です。ここには、何も嫌なことなどありません。さあ、好きなようにこの野原で休憩してみましょう』
小鳥のさえずりが聞こえる。そして、意識すればわずかに聞こえる程度の、非常にかすかな音楽も聞こえてくる。
ガイダンスはなくなった。希榛は、柔らかな草の繁る野原を歩いた。
すると急に突風が吹いた。
目を開けていられないほどの風だ。思わず目を瞑り、顔の前に腕を持ってくる。
そして目を開けた瞬間。
目の前に、いるはずのない人物が立っていた。
全身に小型の四角い機械がお互いにチューブで繋がったものが張り付いた黒い服を着て、右目が青いアイカメラになった、サイボーグの自分。
Spiegel内で作られた希榛だった。
キハルは、片目で不適に笑っている。
「久しぶりだな」
「お前……!」
キハルにだけは、再会するはずがなかった。確かに、この手で倒したはずなのだ。
「そんな顔をするなよ、オリジナル。安心しろ、ここはSpiegelじゃない。この空間にちょっと遊びに来てみただけだ。殺したりしない」
そういえば案内人のフィーユがいない。
「何のために、俺に会う? 誰の意図が絡んでいるんだ」
キハルはにっこりと微笑んだ。
「俺たちは、Spiegelは、お前が好きだ。お前だって、俺たちを追うのを諦めてないんだろう? だから、運動も大きな音も我慢して警察官にまでなった。その期待に応えてやりたくなったのさ。俺たちは両想いってわけだ」
「不気味なことを言うな」
同じ声と顔の存在に言われると鳥肌が立つ。
「何を企んでいる? 警察内部の機器にハッキングしてただですむと思ってるのか。しかも俺は、その手の犯罪を追う専門家だぞ」
「だからそんなことは承知の上に決まっているだろうが。そもそも、これがハッキングだと思うか?」
そうだ。警察のネットワークがここまで脆弱なわけがないし、それに、警察にでもどこにでも、Spiegelと入れ替わった人間は存在するのだ。
「大丈夫だ、まだ何もしない。今日はお前の顔を見に来ただけだ」
「まだ?」
「いわば宣戦布告だな」
見下すような、余裕のある表情。
「何のためにわざわざそんなことを? 誰にも気づかれずに事を成すのが、お前たちのやり方じゃないのか」
キハルは、急に顔を歪めて凶悪に笑った。
「お前を絶望させることにした」
「……はあ?」
「魅力で誘ってもこちらに来ないなら、こちらに来ざるを得ないほど現実に絶望させてやることにしたんだ。それならいくらお前でも、俺たちのものになるだろう」
くつくつと、キハルは引き笑いをする。自分の顔とは思えない、と希榛は思った。
「俺を壊すのか? それとも……誰かを傷つけるつもりか?」
「さあ、具体的にはまだ考え中だが、少なくとも使い物にならなくなるほど壊したりはしない。ちゃんと苦痛は感じられるようにしておいてやる」
そしてまた突風が吹いた。目を凝らして見ていると、キハルは笑いながら消えていった。「楽しみにしておけ」という声が、風に乗って聞こえた。
希榛は投げ出すようにギアを脱いだ。
そこは会議室だ。希榛は冷や汗をかいて、安楽椅子に座っていた。
「大丈夫ですか?キハルさま」
「っ!」
横から、フィーユに声をかけられた気がした。
「ど、どうしたんですか? 織部さん……」
当然、そこには理瀬がいる。錯覚だ。
「気分、悪いんですか? 顔色が悪いし、息も……」
「大丈夫だ……」
セラピストも心配して、希榛に近づいてくる。
「来ないでください。俺には、これは合わなかったようです。帰って寝ます」
希榛は立ち上がって部屋を出た。視界の隅で、セラピストがわずかに口元を歪め、笑った気がした。
理瀬たちの引き留める声がしたが、立ち止らなかった。足元はふらつくが、今は一人になるしかない。
署を出ると、やっと呼吸が整い、しっかり歩けるようになった。
寮に帰ってシャワーを浴びる。
次はどんな手を使うつもりなのか。今、こんな危うい精神状態になっていて、本気で攻撃されたら太刀打ちできるのか。
なにより、希榛を絶望させるという目的のために、他人が巻き込まれることが心配だ。
そのときは、何をしてでもその誰かを守らなければならない。
犠牲にさせないために。完全に壊れないために。
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