全身の痛みを引きずりながら、信也はとぼとぼと一人帰路を歩いていた。

 誰も助けてくれない。肉体的な痛みと孤独という拠り所のない精神的な苦しみを折り重ねる日々。

こんな時間が一体いつまで続くのか。椚にいる間ずっと続くのだろうか。


 ――こんな苦しみが後一年以上も?


 考えただけで身の毛がよだつ。

 そんな恐怖を振り払おうと信也は最近よく通っている大型古本屋へと向かった。

 家に帰ってもろくな事はない。もうあの家にはかつての温もりはない。そんな思いが信也を家から遠ざけていった。なので最近はまっすぐ家に帰らず、どこかで極力時間を潰し、少しでも家にいる時間を減らすようにしていた。

 店の中の中に入り、棚に敷き詰められた本達をぼんやり眺め、気になる本を手に取り読み耽る。本の世界に入り込んでいる時間は信也に安心を与えてくれた。マンガであれ小説であれ、その時間だけは自分ではない別物になれる気がした。


「あれ、信也?」


 だからその時、自分の名前を呼ばれた事にも全く気付かなかった。

 ましてや実生活で信也の名前をちゃんと呼んでくれる者など皆無に等しかった。


「おーい」

「へ?」


 素っ頓狂な声を上げてしまった事に恥じるよりも、自分が呼ばれている事への驚きの方が圧倒的に上だった。

 声の主に目を向けると、そこには見覚えのある顔があった。


「須藤……君」


 そう、確か須藤健二という名前だ。石崎達とも仲良く喋っている場面を幾度か目にした事もある。かと言って奴らの仲間というわけではなさそうだったが、石崎と交流があるというだけで、今の信也には少なからず敵という印象を与える存在だった。


「何読んでんだ? うわ、なんかすげー難しそうな本読んでるな。面白いの?」


 彼の目には日頃石崎達が見せるような嘲りや見下しといった濁りはなく、純粋に対等な位置に対してのまっすぐな光だった。

 それはもはや手を伸ばす事を諦め、だが少し前までは当たり前に向けられてきた光だった。


「う、うん」

「へーすごいな。小説ってなんか難しそうで読んだ事ないんだよな」

「すごくなんて、ないよ」


 もっと何か喋りたい。だがまともな会話をしなくなった生活が続き過ぎたせいで、上手く言葉が続かなった。そんな自分が歯がゆかった。会話という日常的な能力まで失いつつある自分が悲しくなった。


「俺は駄目だな。文字がいっぱいすぎて目が疲れちまう。マンガとかは読まないのか?」

「マンガも、よ、読むよ。本が、好きだからさ」

「お、なんか最近オススメないか? ちょっと一味違う奴が読んで見たいんだけど」

「え、えっと。じゃあ、あれかな……」


 信也はマンガコーナーの方に歩いて行った。その横をぴったりと健二が付いて来た。

 少年誌のゾーンを素通りし、青年ものの棚の前に来て一冊の本を手渡した。インターネット世界を脅かすウイルスが多種多様になっていく中、ついにネット内だけではなく現実世界を浸蝕し出す凶悪なウイルスが人類を蝕んでいくという話で、現実と虚構の境目が徐々に崩れていく様がリアルなタッチで描かれてる作品だ。最近読んだものの中では一番の当たりだった。


「全然知らないやつだ。よくこんなの見つけるな」

「たまたま、だよ」


 健二はぺらぺらとページをめくっていく。絵の雰囲気が気に入ったのか、カッコイイなこれと漫画に目を落としながら評価の言葉を口にした。


「ありがとな。ちょっと読んで見るわ、これ」

「あ、え」

「じゃあな」


 そう言いながら健二は、本を片手にレジの方へと向かっていった。

信也は茫然と健二の背中を見つめた。

 ありがとな。その言葉が胸にしがみついて離れなかった。

 健二にとっては何気ない会話だったかもしれない。でも、あんなふうに普通に喋りかけてもらえたのはいつぶりだろうか。

 なんだか胸がざわついた。この感情はなんだろうか。


 ――健二君。


 自分の感情の意味に気付いたのは、もう少し後になってからの事だった。

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