(6)

「君はきっと覚えてないだろうね。何も特別な事じゃない。君にとってはただの日常。でも僕にとっては違った。あの日の事を僕は忘れられない。あの特別な日を、まともに僕と向き合ってくれた日を、僕は今でも昨日の事のように思い出せる」


 信也の顔には穏やかな笑みが宿っていた。だが残念ながら信也の言う通り、健二にはその出来事を思い出す事は出来なかった。


「性同一性障害。今となっては常識だけど、あの頃の僕にはそんな事分からなかった。体は男で心が女だなんて。でも、君への感情がそれを証明してくれた。僕は君が好きだ。一人の男として、あの時僕は恋に落ちたんだ。男が男を好きになるなんて変だって思ったけど、後になって分かったんだ。僕は男じゃないんだって。本当は女なんだって。そう思ったら全てに納得がいった。自分の顔や体つきが女っぽいのも、君を好きになったのも、本当は女だからなんだって。神様がちょっと間違えちゃったんだね」


 性同一性障害。体と心の姓が一致しない障害。健二も聞いた事はあった。だが信也がまさかそうだったとは気付かなかった。もちろん、自分に好意を抱いていた事も。


「だから今、こうやって眞崎由香という女性として生まれ変わって、すごく心が満たされてる。このまま第二の人生を歩んでいけるんじゃないかって思った。でも、どうしても君に会いたかった。だから君のいるこの大学へ来たんだ」

「俺に、会う為に」

「そうだよ。本当は同回生で入りたかったけどね。性転換の都合でどうしてもタイミングをずらす必要性が生じた。けど、無事君に会えた。でもそこで僕は見たくない現実を見た」


 信也の目が憎々しげに横の存在を睨む。

 そういう事か。ようやくそこで信也の言いたい事が分かった。 


「理沙か」

「そう。当時から江ノ上さんの存在は僕を不愉快にさせた。それが嫉妬と気付くにも時間はかかったけど、まさかまだ関係が続いていたなんて思ってなかった。それに君は、彼女と結婚する気なんだろ?」


 由香の事を信也だなんて知らない頃、そんな事を由香に話した事があった。思い返せば、そっかと素っ気ない返事をした由香の心境は、信也の嫉妬が見せた暗い炎の一片だったのかもしれない。


「そしたら全部が止まらなくなった。僕の人生、やっぱり何も叶わないのかって。好きな人に好きだと伝える事も、それが叶う事もないのかって」

「だから、全てを終わらせるのか」

「そうだよ。もう愛想が尽きた。こんな世界に。最後ぐらいやりたいようにやろうって決めた。僕をここまで面倒見てくれた涙さんには申し訳ないけど、後悔はないよ」


 そう言って信也は理沙を見下ろした。信也の手からごとりとスタンガンが落ちた。その瞬間、反射的に健二は叫んだ。


「君塚さん!」


 健二が叫んですぐに教室の扉が開き、拳銃を構えた君塚が現れた。


「ああ、やっぱり来てたんだね。体は大丈夫?」

「いい刺激になったよ」


 君塚の射るような目線が信也を捉える。

 信也の方に目を向けると、先程までスタンガンが握られていた手には銀色に光るナイフが握られていた。


「動いたら撃つ、ってやつ?」

「分かってるじゃないか。ならその次も分かるだろう?」

「武器を捨てて大人しくしろ、でしょ?」

「ならさっさとそうしてくれないか」

「すると思う?」

「じゃあ、撃つしかないな」


 教室の中に異常なまでの緊迫感が流れる。凶器をかざす信也。拳銃を構える君塚。その中で健二は身動き一つ取れなかった。今動けばそれ自体が引き金になる。

 一触即発。健二はただその様子を見守る事しか出来なかった。


「健二君」


 信也の声に健二は顔を向ける。信也の目は君塚の拳銃に向けられたままだった。

「好きだよ。健二君」

「……」

「どうせ届かないし、受け入れられない事は分かってる。でも好き。ずっと好きだった。健二君が声を掛けてくれたあの日から、僕は心の中で君の存在に寄り添って救いを求めた。それがあったから、きっとここまで生きてこれた。生きようと思えた」

「……」

「でも、私はこの子に勝てない」

「信也……」

「由香になった所で! あなたとは一緒にいられない!」

「おい、信――」


 ナイフを持つ信也の手が大きく天にかざされた。

 そしてその手が、勢いよく理沙に振り下ろされていく。

 その全ての動きが健二の目には緩慢に映った。助けなければと動かした体は鉛のように重く、まるで海中を歩いているようだった。


 ――理沙……!


 終わってしまう。全てが終わってしまう。

 いくら焦っても、速度は上がらない。信也との距離は無限のように縮まらない。

 その時、耳元で強烈な爆発音が響いた。その瞬間に全ての景色が速度を戻し、健二の足は思わずもつれ、その場に倒れ込んだ。

 音の正体に目を向けると、君塚の銃口から白い煙が立ち昇っていた。

 君塚の肩は大きく上下し、顔には大粒の汗が浮き上がっていた。

 向けられた銃の先に首を向ける。


「あ……あ……」


 先程まで理沙の横に立っていたはずの信也がその場に崩れ落ちていた。


「理沙!」


 健二は慌てて理沙の方を見やる。理沙の目は真っ赤に腫れ、とめどなく涙が流れていた。

 猿ぐつわを外してやると、理沙は大きな声で泣き叫んだ。

 健二は理沙の頭を胸の中におさめ、強く強く抱きしめた。

 理沙が生きてくれている。その事実にただひたすら感謝した。

 横に倒れ伏す信也を覗き込む。

 信也の胸元が大きく浮き上がり、また沈んでいった。激しく繰り返されるその動きが信也の生を伝えたが、その動きの荒さが信也が終わりに向かっている事を感させた。


「信也」


 そう口にすると、信也の顔がこちらを向いた。

 弾丸は信也の首元に当たったようで、そこから大量の血液が零れ出していた。


「け、んじ、く……」


 口を動かす度にごぽごぽと赤い液体が口元から流れ落ちた。

 これだけの惨劇を引き起こし、自分の恋人を殺そうとした人間でありながら、健二の心には信也に対する何とも言えない感情が渦巻いていた。

悔恨、というべきか。信也のしてきた事は決して許される事じゃない。だが、彼をこんなふうにしてしまったのは、信也自身じゃない。

拓海達の心ないイジメが。愛情を捨てた家族が。そして、信也の心に気付けなかった自分が。

ひょっとしたら、自分なら救えていたんじゃないか。

もっと信也に接していれば、信也の心はここまで追い込まれなかった。

信也の切実な告白の言葉が、健二の心に深く染み込んでいた。

健二は理沙からそっと離れ信也の元へ歩み寄った。そして力の抜け切ったか細い腕をとり、強く握りしめた。


「信也」


 今更全てが手遅れだ。

 信也としても、由香としても。その心を救ってやることは出来なかったのだから。


「ごめんな」


 信也の首が、僅かに横に振られた。

 もはや言葉を伝える事も出来なくなった彼の最後の意志が何を伝えようとしているのか、はっきりと読み取る事は出来なかった。


「ごめん……!」


 信也が欲しい言葉はきっとそうじゃない。

 だが健二には、その言葉以外信也に伝えられる言葉はなかった。


 全ての悲劇は、幕を閉じた。

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