藍城涙 Ⅰ
(1)
店を出ればいつものように夕焼けのような太陽が顔を見せていた。
多くの人々にとっての目覚めの光は、藍城涙にとっての一日の終わりであり、彼女にとっての朝日は眠りを誘う月明かりだった
――疲れた。眠い。
すっかり逆転した朝と夜。仕事を終えた涙はくたくたになった体を早く寝かせようと足取りを急いだ。
住み慣れたアパートの鍵をするりと開け、部屋に入り勢いそのまま布団に倒れ込む。
「おやすみなさい」
誰にともなく呟き、程なくして涙は眠りの中へと落ちていった。
水商売という生業を始めてもうずいぶんと年月が経ったように思う。
始めたての頃は、中年達の脂ぎった顔や手のべたついた不快な感触。背筋を百足が這い上るようなおぞましさを感じさせる下劣極まりないセクハラトーク。こんな環境で自分の精神は一体いつまで持つのだろうかと何度も絶望に飲み込まれそうになったが、その都度自分の生活の事を頭に奮い起こし耐え抜いた。
金が無ければ、生きてはいけない。
抗えない現実が、涙のどうしようもない人生の支柱だった。
人間という生き物は、良くも悪くも”慣れ”で出来ている。涙はそう思った。
あんなにも生理的嫌悪をとめどなく感じさせた客達に、今では何一つの感情も湧き立たなかった。生きていく手段としてこの仕事を割り切りこなしていく事で、涙の感情は麻痺し、次第に存在すら薄らいでいった。そして慣れてくると相手が求めている事が手に取るように分かり始めた。みるみる成績は伸び、懐は瞬く間に暖かくなった。だが、金が入れば入るほど、心は冷えていった。
感情があるように振舞うロボット。客にこびるだけの笑顔はまるで生気のない仮面のよう。悪魔に感情を売り渡して金を貪る亡者。他の嬢共には様々なバリュエーションの揶揄と嫌味を投げつけられた。だが涙からすればどれも馬鹿馬鹿しく、相手にする価値もない言葉達だった。
――だったら、どうしてあなた達はここにいるの?
――結局は金が欲しいから、好きでもない男達に笑顔を振りまくんでしょ?
――私の笑顔とあんたらの笑顔、一体何が違うの?
ここに来て残りカスのような常識を今更ひけらかしている事の方が片腹痛く、滑稽だった。
金が入れば生活の不安は何一つなくなった。生きていく上では何の不十分もなかった。だがその頃には、生きる以外の金の使い方を涙は忘れてしまっていた。
食事はインスタント物がほとんど。着る物も外に出るのに最低限のもの。
豪華な食事も、お洒落な服も、涙にとっては何の感動も与えなくなってしまっていた。
いくら稼いでも埋まらない空虚感。
もはや自分の人生が何の為にあるのか。それを考える事すら放棄していた。
ただ生きる為に生きる。
涙にとっての人生は、ただそれだけだった。
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