第32話

 僕は彼女の手を振り払っていた。

 僕にすがりついていた彼女は体勢を崩し地面に転がる。

 ミキハの目が大きく見開かれる。

 僕はどうしてこんな真似をしてしまったのだろう。

 僕は彼女のことが好きだったはずなのに。それは「恋」であって「愛」ではなかったとか、哲学じみた言葉遊びを弄する気はないし、彼女が僕を「大した人間じゃない」と評価していたことで冷めてしまったと言い訳するつもりもない。


 ただ、ただ怖かった。


 本当に怖かった。


 消える事も、死ぬ事も、生きる事も、何かを選ぶこと全てが怖くなった。


 選ぶ事は責任を持つ事だから。


 そして、それはもう逃げる事ができなくなることだから。


 彼女の瞳が怨嗟の色に染まる。人間はこんな表情ができるのだ。憎しみの感情。その鬼気迫る様子はまるで僕の心を深く抉って決して忘れさせまいとしているようだ。


 僕は、ただただ恐怖した。


 人の顔はこんなにも強い恨みを表すことができるのだ。


 震える彼女の唇が最後の思いを言葉にした。


――死ね。


 一番シンプルに悪意を伝える言葉。

 でも、もう人は簡単に死ぬことも叶わない。

 そういう世界になってしまった。

 神様がそうしてしまったんだ。





 そして、ミキハは死んだ。


 そう死んだのだ。


 彼女は消えなかった。


 それは、彼女が僕への憎しみという強い思いで生にしがみついていたことを示していた。死の恐怖や痛みを味わうことよりも、彼女の身体が生命を維持できなくなる最期の一瞬まで、彼女は僕を憎んだのだ。




 彼女を見捨てて、のうのうと生き残る僕を。

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