第31話

 ミキハは僕の顔をじっと見つめていた。僕も彼女を見つめ返す。彼女の身体は、彼女の身を包む服ごと限りなく透明に近づいている。

 僕はなんとかしなくちゃいけないという思いだけは持っていた。だから、彼女の言われるがままにこの場所へとやってきたのだ。だが、ここから先は本当にどうしていいのかわからない。彼女と共に消えてしまう事が正しい事の様にも思えるし、彼女を説得して病院に戻って最期の瞬間まで戦い続ける様に説得する事が自分のやるべき事の様にも思えた。しかし、結局何もできずにこうして膝を抱えている。

 ただの高校生に過ぎない自分には重すぎる決断だった。


 何を考えているのだろう。少し前からミキハは黙り込んで病院の方を見ていた。普段自分が居るあの病室を。

 つられて目をやった瞬間、その病室のまどからにゅっと人影が現れ、こちらを指差す。ミキハの母親だ。僕は思わず目を伏せる。そうしたって隠れる事などできないのに。この場所は病室から丸見えだという事も解っていた筈なのに。

 一瞬、目にしたおばさんの表情は――――生涯忘れる事はできない。

 汗がどっと噴き出す。背筋が凍る。

 あの場所からここまで大人の足ならせいぜい五分。

 それまでに結論を出さなくてはならない。

 そっと窺う様にミキハの方を見ると、ミキハはじっと僕の目を見ていた。しかし、額には滝の様な汗が流れ、顔色は真っ青を通り越して土気色。まるで全力で走った後の様に、ぜいぜいと肩で息をしている。


 時間が無い。


 それでも僕は固まったまま。何の行動にも移せない。いっそこのまま時間切れを待つべきなのでは。そんな邪な考えが僕の脳を掴み始めていた。

 僕が何の行動もできないうちに、ミキハは動いた。

 何か言いたげな表情。何度も口を開いては閉じ、話すことを躊躇っている様子が見て取れた。そして、ついに覚悟を決めたのだろうか。病状の悪化で、息を荒くしたミキハが途切れ途切れの声で語りだす。

 不思議な話なのだが、僕は彼女が自らの声帯を振るわせて、この世界に彼女の言葉を生み出す、そのほんの一瞬前、何かを悟ってしまった気がした。

 彼女がこの話をしようという意志を固めたその瞬間が、全ての終わりだったのだと。


「最初にここでカケルと出会ったとき……ほんとはもう死ぬってわかってた……」


 世界は律動をやめてしまったかのようだった。とても、とても静かだ。


「でも……独りで消えちゃうのは……嫌だったから……誰か一緒に『向こう側』について来てほしくて……声かけたの……」


 それでもなお、僕は拒みたかった。防衛本能が僕の思考能力を奪う。彼女の言葉を理解する事を心が拒んでいる。だって、それを認めてしまえば、僕の心は壊れてしまう。

 しかし、ゆっくりと染みわたる様に彼女の言葉という毒で僕の脳は犯された。理解してしまったら、言葉を紡がずにはいられない。


「……最初から道連れにするつもりで」

「ごめん……ね……」


 彼女は続ける。


「仲良くなったら……一緒に来てくれるかな……って。私……『友達』一人も居ないし……」


 僕は何も言葉を返せずにいた。僕は今でも何度も考える。このときに相応しい言葉を返せていれば、もっと違った結末を迎える事はできたのだろうか。それとも、もう遅かった? だったら、いつ? いつまでさかのぼってやり直せば、このバッドエンディングを覆せた?


 でも、きっと、このエンディングは決まっていたんだ。


 彼女と初めてかわした言葉。


『私と友達になってよ』


 答えは最初から出ていたじゃないか。


 僕と彼女は『友達』だったんだ。


 彼女にとって、僕は『友達』でしかなかったんだ。


 僕は彼女を救うヒーローなどでは、決してない。


「わかってる……わかってるんだよ……!」


 ミキハは急に語気を荒げる。


「そんなのダメだって事くらい。カケルも、お母さんもお父さんも。私の周りに居る人全ての人の事を考えたら、そんな身勝手なお願いできないって……わかってるんだよ!」


 ミキハは髪を振り乱し、震えながら叫ぶ。

 それでも、僕は何も言う事は出来ない。


「私は卑怯だ。最低だ。生きる価値のない人間だ! ……自分の幸せしか考えていない……!」


 それは、きっと僕も一緒だ。

 しかし、僕はそんな慰めの言葉すら言う事ができない。

 僕はミキハが好きだ。それでも、ミキハの為に共に「旅立つ」事を躊躇っている。本当に彼女を愛しているならその行動をどうして躊躇う必要があるのか。

 結局は、自分が一番かわいいのだ。

 いつの間にかミキハの目には大粒の涙が溢れている。初めて見た彼女の涙。どんな時も気丈に振舞っていた彼女が見せた涙。それでも僕は何もしてやる事は出来ない。


「私の事は忘れて、って言うべきなんだよね? 誰か別の人と幸せになってね、って言わなきゃいけないんだよね? だってそうでしょう? 恋愛小説でも、少女漫画でも、そういう風に書いてあった……!」


 ミキハは既に僕の事が目に入っていない様だった。熱に浮かされているのだ。やはり、無理をし過ぎたのだ。


「でも、そんなの無理だよぉ……怖い……怖い……一人で、行くのは怖い……『楽園』が本当かなんてわからないじゃない……怖いの」


 彼女の言葉はがりがりと僕の心を削り取り、不快な音を立てる。僕はもう耳を塞いでしまいたかった。心を捨ててしまいたかった。

 うわ言のような調子で彼女は呟いた。


「いいじゃん……最初からそういうつもりで近付いたんだし……何もいい子ぶらなくてもいいじゃん……道連れにしたらいいじゃない……どうせ――」


 僕は、その時、耳を塞ごうとした。

 でも、それは間に合わず、その言葉は僕の耳に届いた。


「――どうせ大した人間じゃない」


 ああ、そうか。

 そうだったのか。

 この時、僕の頭はすーっと冷えた。


 やっぱり僕達は、所詮『友達』でしかなかったのだ。


 自分が漏らした言葉に、彼女が自分で気がついたのだろう。はっとした表情で顔を上げ、彼女は哀惜を滲ませて言った。


「……ごめん……なさい」


 瞳に既に生気はなく、涙や鼻水や汗で彼女の顔はひどく汚れていた。

 なんて、醜いのだろう。


「……ごめんなさい」


 彼女は最後の力を振り絞る様に繰り返した。

 その時だった。


「……っ――!」


彼女は胸を押さえて蹲った。


「ミキハ!」


 その光景に、僕は思わず叫ぶ。

 これは発作だ……。まずい容体であることは素人目にも明らかだ。


「誰か人を……」


 彼女は震える手で僕の裾を掴んだ。


 もう彼女の身体は色を残してはいなかった。


 消える……。


 彼女の苦しみに喘ぐ顔。


 その瞳は僕の目をまっすぐに捉えていた。


――一緒に来て……




 僕は――

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