第24話

 一度だけ試してみようと思った。

 その日、僕はミキハのことを考えて何もかも捨て鉢になっていた。

 ミキハの病気のこと。

 狂ってしまった世界のこと。

 色々な衝動が去来しては、僕の心の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。


 こんな壊れた世界に居てもしょうがないじゃないか。


 ほとんど衝動的にそう考えた。そこに論理的な思考など欠片も存在しなかった。

 僕は「消失」を試してみることにした。

 「消失」をして元に戻った者は居ない。だから、それがどういうものなのか世界中の誰一人として知る者は居なかった。自分で体験するしかそれを知る方法はない。

 実際、「審判の日」以来、些細なショックなことで人は「消失」するようになったと言われている。今までは能動的にこの世界から去ろうと思えば、自殺するしかなかった。そのためには命を絶つ道具が要る。そして、絶命の瞬間の痛みに耐える覚悟が要る。この世界から去るにはいくつもステップが必要だったのだ。


 しかし、今は違う。

 ただ生きる意志を放棄する。それだけで人生は簡単に終わってしまう。そう言われていた。

 僕がミキハと共に行くことができるのか。そのための予行演習。熱に浮かされたような曖昧な思考で僕は消えようとしたのだ。


 もちろん、もし本当にこの瞬間に旅立ってしまえば、ミキハと共に旅立つ事はできない。しかし、このときの僕はそんな当たり前の判断もできないくらい混乱と焦燥の渦中に居た。

 方法は何も難しくない。生きている人間なら誰もが持っている生きる意志を放棄するだけ。それだけで僕はこの世界に何の痕跡も残さず消え去る。

 生きる意志とは何かとか、それを捨てるとはどういう事かとか、小難しい事を考える必要は無く、その方法は感覚でわかった。魂という物をどこか遠くに置く様なイメージ。論理的に説明はできなくとも、それは理解できた。

 自分の身体から力が抜けていくのがわかる。頭の中に靄がかかった様にぼーっとする。思考がまとまらない。僕はへたり込むように床に転がる。

 どこか夢の中に居る様であった。一種の多幸感の様なものさえ生まれていた。これが、消えるということなのか……?

 そして、僕は右手を弱弱しく掲げて自分の手を見た。

 ぼんやりとした右手の輪郭、その先に部屋の天井がはっきりと見えた。


「――っ!」


 瞬間、僕は飛び上がるように身を起こした。

 怖い。

 自分が消えてしまうのが怖い。

 自分の身体を客観的に認識した瞬間、感じていたふわふわとした思いは一気に消え去った。どっと汗が噴き出す。がちがちと妙な音が聞こえる。それが自分の震えで歯の根が合わなくなっているのだと気がつくまで一瞬、間があった。


 何が消えようと思えば簡単に消えられる、だ。


 簡単? これが?


 「消失」を拒否し、生きる意志を取り戻した後、僕の身体は再び色を取り戻していた。

 しかし、その色もどこか薄い。一度「透明化」が始まれば、二度と元の状態に戻る事はない。つまり、今日、明日という事はなくても、いつの日か自分は消えてしまう。

 ドクドクと過剰に脈を打つ心臓を押さえながら考える。


 消えた後に「僕」はどうなる?


 わからないんだぞ。その先に永遠の苦しみが存在しない保証なんてどこにもないんだぞ。


 僕はミキハのために「僕」を捨て、消え去ることなど、本当にできるのだろうか。

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