第19話
季節は本格的な冬を迎えていた。病院を訪れてもミキハに会えなくなる日が増え始めた。病状が思わしくないのだ。筋肉の硬直が急速に進んでいる。たまに会えた時も、以前の様にベッドから身を起こす事も無く、ずっと伏せっている事が多くなった。しかし、代わりに僕とミキハが会う時、彼女の母親は席を外す様になった。父親が何か口添えをしてくれたのだろうか。
そんな時、僕達は話をした。学校の話。「友達」の話。漫画の話。
彼女が持っていた漫画は一昔前の少年漫画が主だった。いわゆる「王道」というのだろうか。
正義の味方が悪を倒す。そんな内容の物ばかりだった。
「お父さんのお下がりだよ」
彼女は言う。
喫茶店で話をしたときの事を思い出す。実年齢よりも老けこみ、疲れ切った表情浮かべ、身体を透けさせた彼女の父親。彼の様な人間がこういった漫画を読む事は意外に思われた。しかし、よく考えればあの人にだって、少年時代はあったのだ。
「本当はもっと少女漫画も読んでみたいけど、最近、新しい漫画ってなかなか手に入らないからね」
「消失」が始まってから娯楽は数を減らした。皆、余裕が無いのだ。「消失」が人間の精神状態に関わっている事が判明してからは、気分転換の為の娯楽も推奨されているが、以前ほど漫画は充実していない。出版社も上手く機能していないのだ。だから、漫画を読もうと思えば、古本を買うか、有志が出版社を介さずに発表している物を集めるしかないのであった。
ミキハは古びた漫画を見つめながら言った。
「人は『消失』した後、どこに行くのだと思う?」
「……わからない」
「消失」の原因がわからないのに、消えた人間がどこに行くか、などという事がわかろうはずもない。消えてしまった人間はもう死んでしまったのだ、と考える人も居れば、どこか遠い世界で生きているのだと信じている人も居るのだった。
僕はそのどちらの意見も、妥当にも思えるし、的外れとも思えた。
要するに僕には自分自身の考えという物が無かった。
「お母さんは、『向こう側』は『楽園』なんだって信じてるみたい。最近、よく聞く新興宗教の受け売りみたいだけど」
「向こう側」。
「消失」した人間が向かう先をなんと呼べばいいのだろうか。その世界は「あの世」なのかもしれない。しかし、消えた者の生存を信じている人は、消えた人間は「向こう側」に居ると言うのであった。そこがどんな場所なのか、まだ誰も知らない。
「ミキハはどう思うんだ?」
僕は尋ねる。
「私も、きっと『向こう側』は『楽園』なんだと思う。そう考えてる方が気が楽だしね」
ミキハは普段とは違った、どこか大人び、老成した声色で言った。
「私はもうすぐ消えるだろうし」
僕は思わず、立ち上がった。僕が座っていた丸椅子が鈍い音を上げて、冷たい床の上を転がる。
その様子を見て、ミキハは力無い微笑みで言った。
「私、もうすぐ死んじゃうからさ……たぶん、その前に消えちゃう……」
「知ってた……のかよ……」
僕は思わず言葉を漏らす。
遠い昔、この病室に居た祖父。そして、死んでしまった人。その存在の欠片が、僕の背後でぱらぱらと舞っている。背筋が凍る。
「みんな、内緒にしてたみたいだけど……わかるよ、流石に。自分の事だもん」
心臓が俄かに暴れ出す。いつの間にか舌の根がからからに乾いていた。僕は何か言葉を紡ぎだそうとするが、乾ききった舌は、何も生み出す事ができない。
「カケルが気にする事じゃないよ」
「……でも」
ようやく振り絞った言葉。いつの間にか、僕の目に涙が溜っている。
ミキハは微笑んでいる。
僕だけが情けなく涙を溜めている。
「泣かないでよ。ほんとにカケルは……」
ミキハは優しく微笑んだ。その笑顔は母親が愛しい子供を見て目を細めている様を思わせた。ミキハがそんな慈愛に満ちた表情を見せるのは、初めての事だ。
どうしてそんな顔をしていられるのだろう。自分の命について話しているというのに。
「大丈夫だよ。『向こう側』は『楽園』なんだから……」
ミキハはベッドに寝たまま、俄かに僕から視線を外して窓の外の方に目を向ける。
「でも、向こうで独りぼっちになるのは怖いな……」
どこまでも透明に消えていく声。
僕の耳は確かにその言葉を捉えていた。
いっそ聞こえなかったら良かったのに。
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