第9話
階段を半ば飛び降りるようにかけぬけた。途中で看護師らしき人とすれ違い、思わず歩調を緩める。病院で全力疾走するわけにはいかない。ロビーを抜け、病院の入口の重たいガラスの扉に手をかけた瞬間だった。
「待ってください」
思わず振り返るとそこには、ミキハの母親が立っていた。肩で息をしている。病室を飛び出した僕を追い掛けてきたのだろう。
僕は思わず鼻白む。どうして僕を追い掛けてきたのだろう。混乱のために思考はまとまらない。
「少し、お話させていただけませんか……」
何を考えているのか解らない空虚な瞳に射竦められ、僕はただ頷く事しかできなかった。
てっきりそのままロビーで話をするのかと思ったら、おばさんは病院の外に出た。「あのベンチでいいかしら」とだけ言って、すたすたと病院の向かいにある小さな公園のベンチへと向かっていく。
夕方とはいえ季節は夏。今も沈みかけた太陽が世界を焼き続けている。何も外でなくても、そんな思いが浮かんだが、すぐに気がつく。
きっと、ミキハに追い掛けてこられては困るのだ。ロビーまでなら彼女が自力で来たとしてもおかしくは無いから。これからなされる話というのは、ミキハに聞かれてはならない類の物であるのだ。
ボロボロの木のベンチ。ささくれが目立つ。もう長い間整備されていないのだろう。「消失」が発生してから世界は混乱に陥った。多くの人が消えたためにライフラインの供給が滞ったのだ。三年たった今では、仮初にも秩序を取り戻しているが、やはり以前よりも社会は不便になった。ごみ収集の回数も減ったし、水道も頻繁に取水制限が行われる様になった。何もかもが不足しているのだ。だから、公園のベンチの手入れなど、緊急性の低い事はどうしても後回しにされる。
そんなベンチにささくれを避けて座る。結果的に、おばさんとはベンチの両端に座る様な形になる。正直、どのような距離を保てばいいのか解らない僕からすれば、自然、距離を取れた事は幸いだった。
このベンチはギリギリ木陰に隠れていたために、直射日光は当たらない。場違いなツクツクボウシの声が頭上から降り注いでいる。
「ごめんなさいね」
おばさんが口を開く。何に対する謝罪なのだろうか。僕は蚊の鳴くような声で「いえ……」とだけ答えた。
「話っていうのはね、あの子の病状の事」
おばさんは意外にも単刀直入に切り出した。
僕は今からなされるであろう話に身構える。こんな風に切り出される話は良い話でない事は確かだった。
「あの子は長くはもたないわ……」
おばさんは今にも消え入りそうな声で言った。つんざくツクツクボウシにかき消されてもおかしくない声量であったのに、僕の耳ははっきりとその言葉を捉えた。
想像もしていなかった事実に、くらりと体の芯が揺らぐような思いがする。子供の頃に訪れた祖父の病室の光景がちらりと脳裏をよぎった。
「たぶん、よくても一年……それ以上はないだろうって」
「そんな……」
今の世界に重病人はほとんどいない。それは重い病に冒された時点で生きる希望を捨てて、「消失」してしまうからだ。入院しているミキハの痩身を見れば、決して軽い病気ではないだろうことは察せられたが、だからといって余命を宣告される様な病状であるとは到底思えなかった。
「筋肉の病気よ……何万人かに一人の奇病でね、生まれつき筋肉が弱いの。それは内臓も同じ。もちろん、心臓もね……。あの子の心臓は、もういつ止まってもおかしくないの……上手く心臓が持ってくれたとしても、直に身体の筋肉が衰えて、動く事もできなくなるわ……昨日、あんな風に裏山を登れただけでも奇跡なの」
彼女が車椅子に座っていた事を思い出す。きっと普段はああやって移動しているのだろう。
「でも、それならどうして――」
「どうして消えないんですか」。その言葉を、奥歯で噛み砕いて無理矢理飲み込んだ。
それでも、おばさんは僕の疑問を察したようだった。
「あの子には、まだ余命の事は伝えていないの……」
この母親の気持ちは充分に察せられた。もし、余命の事を伝えた事で彼女が消えてしまう様な事があれば、きっと耐えられないだろう。
おばさんの身体の色が一層薄くなったように思われた。
僕は黙り込む事しかできなかった。こんな事実をやすやすと受け止められるほど僕は大人ではなかった。僕はうつむいて自分の手だけを見ていた。まだ色を残す、その手を。
どれだけの時間が過ぎたのだろうか。太陽はいつの間にか沈み、闇が世界を優しく包んでいた。ツクツクボウシの声もいつの間にかやんでいた。
「この事を話したのは、考えて欲しかったからなの」
おばさんは再び口を開いた。僕は言葉の意味がわからず、押し黙っている事しかできない。
「あの子は……いずれ居なくなるわ」
「死ぬ」とも「消える」とも言わなかったのは、何かへの抵抗だったのだろうか。
「あの子の傍に居るならいずれ直面する事です」
ここに至って僕は、ようやくおばさんの言葉の意味を理解した。
ミキハの傍に居れば、遠くない将来、彼女の「消失」と向き合わねばならないのだと。
三年前から現在まで消えた人間は数え切れない。当然、僕の周囲の人間も大勢の者が姿を消した。近所の人や先生、友達。その中にはそれなりに親しかった者も居た。当然、僕はその喪失を悼んだ。
しかし、それをどこか他人事の様に捉えている自分も居たのは事実だった。要するに実感がわかなかったのだ。
「消失」は死ではない。
消えた後には死体は残らない。
それがどこか僕から現実感を奪っていた。消えてしまった人達もある日ひょっこり帰って来るのではないだろうか。そんな思いがあった。三年が経過した今となってはそれが甘い考えだと解っている。消えてしまった者には二度と会えないのだという事も理解し、悲しみを覚えている。だが、初めに楽観的な捉え方をしてしまった分、どこかまだ本当の実感を得られていない気もしているのだ。
父も母も健在なのも大きいかもしれない。少なくとも身内で消えてしまった者は居なかった。そのために、「消失」は、文字通りの意味で「他人事」であった。世界の終わりをそんな風に捉えてしまう僕は、やはり薄情なのだろうか。
でも、ミキハは違う。
ミキハは死ぬのだ。
祖父が入院していた薄暗い病室が脳裏で明滅する。
それは、僕のどこか不誠実で曖昧な考え方を許さずに、厳然たる現実として僕に牙をむくのだ。
「貴方は昨日、初めてあの子と会ったのよね。事情も知らなかったのでしょう?」
確かに僕は彼女の病気がこれほどまでに重いとは想像もしていなかった。
「今なら何もかも無かった事に出来ると思うの」
僕は思わず、おばさんの方を見た。おばさんは地面を見つめていた。その瞳に何を映しているのか。僕には解らなかった。
また、しばらくの間、沈黙が世界を覆った。病院の周囲はこの町でも輪をかけた田舎というやつで、周囲には本当に何もない。セミ達が黙り込んだ今、この場を賑やかしてくれる者など現れそうにもなかった。
僕は何かを言わなくてはいけない。それは解っていた。しかし、その「何か」に名前を与える事は、僕にはどうしても出来なかった。
「ごめんなさいね、こんな話をして引きとめてしまって」
おばさんが立ち上がり、ベンチに座って汚れた服を払いながら言った。
「いえ……」
僕はどうにかそれだけ返事をする。
「今ならあの子も貴方の事を忘れると思う。きまぐれな子だから」
「本当にごめんなさいね」と繰り返して、ミキハの母親は病院へと戻って行った。その後ろ姿は、儚くて、今にも消えていなくなってもおかしくないと思った。
僕はベンチに深く腰掛け直す。
これから僕はどうしたらいいのだろう。
見慣れた満天の星が、僕を見下ろしていた。
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