第8話

 こんな事ってあるのだろうか。


「カケル……弱いね」


 僕はオセロでミキハに三回連続で敗北した。それどころか一度は、盤面が埋まりきらない内に、僕の黒の駒は一つもなくなり敗北した。一つも自分の駒がない以上、挟んで相手の駒をひっくり返す事もできない。その時点で敗北だ。最後まで戦って負けるならいざ知らず、このような敗北を喫したのは、オセロに関して何の自負も無い自分でも、流石に不本意だった。


「あ……でも、こんな勝ち方できたのは、私が強かったからじゃなくてカケルが本当に弱かったからだから」

「なぜ落ち込んだ僕に追い打ちをかける……」

「違う、間違えた……まあ、大丈夫だよ」


 何が大丈夫なのか全く解らない。


「カケル君はお時間大丈夫?」


 ミキハの母親がそっと切り出す。

 おばさんは僕達がオセロをやっている間、何をするでもなく、ずっと病室に居て、その視線はほとんど始終、僕に突き刺さっていた。僕がおばさんの方を向くと、笑顔を浮かべた。しかし、そこに温かみという物は全く感じられなかった。


 窓の外を見る。燃えるように真っ赤な夕日が病室を照らし出していた。冷たいリノリウムの床が少しだけ明るく見える。

 僕の両親は放任主義だから遅く帰ろうが何も言わないだろうが、病室に長居するには不適切な時間だろう。

 そして、いつの間にかオセロに熱中してしまっていた自分に気がつく。こんな時間になっている事も気付かないくらいに。


「すいません、長居してしまって……」

「あら、いいのよ。ただ、あまり遅くなると親御さんも心配なさるでしょうから」


 あくまで僕を慮るという体は崩さない。しかし、言葉が建前である事は間違いがない様に感ぜられた。


「もう帰っちゃうの?」


 ミキハは途端に捨てられた子犬のような悲しそうな表情を浮かべる。


「ミキハ、我が儘を言ってはダメよ」


 母親はミキハをたしなめる。


「でも……」


 ミキハは小さな声で呟いて、うつむく。長い前髪に隠れて彼女の表情は見えなくなる。


「オセロならいつもみたいにお母さんが相手してあげるから――」

「お母さんじゃなくて、カケルとしたいのに……」


 彼女のその言葉にどれだけの意味があったのだろう。今となっては解らない。でも、その言葉は、その場の空気を凍らせるには充分だった。

 僕は居たたまれなくなって言った。


「そろそろ、僕は失礼します」


 おばさんは僕の方を振り返って言った。


「そうね……」


 その静かな声には、色々な感情がドロドロと渦巻いている。迂闊に触れれば、飲み込まれてしまう。そんな風に思った。


「失礼します」


 そう言って僕は病室の扉に手をかける。


「また来てくれるよね?」


 慌てた様な声が僕の背中に突き刺さる。僕は思わず振り返ってミキハを見る。彼女の顔には、明確な焦りの感情が浮かんでいた。本当に感情がわかりやすい。

 そして、同時に彼女の母親の表情が目に飛び込んでくる。ミキハと対照的に、どんな感情を抱いているのか解らない虚ろな瞳をしていた。少なくとも僕の存在を歓迎している訳ではない事だけは明白だった。

 僕はなんと答えるべきなのだろう。僕は一瞬だけ逡巡した。

 ミキハと過ごした時間は確かに楽しかった。また、彼女と今日みたいに遊べるなら、嬉しく思う。

 でも、それが彼女の母親の、こんな凍るような視線と共にしか得られない物ならば、はたして僕はその時間を愛せるだろうか。


「……来れたらね」


 結局、僕は当たり障りのない言葉を残した。


 そして、僕は逃げるように病室を後にした。

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