第7話

 訪れた病室には、見覚えがあるような気がした。

 そして、思い当たる。


 ここは幼い頃、祖父の見舞いに訪れた病室だ。


 実際には違うのかもしれない。病室なんてどこも似たようなものだし、なにせ子供の頃の記憶だ。ただ、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。


 でも、ここはあの場所だ。そう思った。


 僕が嫌で嫌で仕方がなかった、あの病室だ。


 しかし、あの時の病室とは明らかな違いがあった。それは置かれている物だ。祖父が居た時は、ほとんど何の荷物もなかったように思う。あってもせいぜい着替えくらいのものだったのだ。しかし、今のこの部屋には様々な物が置かれていた。

 大小様々なぬいぐるみ、古びた文庫本、一昔前の少年漫画、窓の傍にかけられたファンシーな風鈴。すべて彼女の持ち物なのだろう。

 母親は、「汚い部屋で」と言いながら、それらを備え付けの棚の中にしまっていった。まるで、僕から隠そうとするように。


 そして、母親に勧められ、僕は病室にあったパイプ椅子に腰かけた。

 「スオウミキハ」は自分のベッドに腰掛けて、僕と向き合っていた。

 改めて見るとなかなか可愛い少女だと思う。少し痩せすぎだとは思うが、大きな瞳がくりくりとして、どこかあどけない少女らしさを醸し出していた。黒く長い髪もきちんと整えられていた。

 そして、何より笑顔が素敵だと思った。この子は、何もなければずっとにこにことしている気がする。そんな風に思わせた。

 でも、彼女の身体はかなり「透明化」が進んでいた。


 「消失」の進行具合を示す数値に「透明度」と言う物がある。「手の平に一定の光量の光線を当てた時に反対側に到達する光量」。それが「透明度」だった。つまり、身体が透けていれば透けているほど、反対側に達する光量は多くなる。

 「透明度」が高いという事は「透明化」が進んでいるという事で、それはすなわち、「消失」に近づいているという事でもある。

 この検査は全ての人間に毎月行われていて、検査の結果が良好でない者は、カウンセリングを受けなくてはならなくなる。精神のケアをする必要があるというわけである。

 この「透明度」は不可逆の物ではない。心を強く持てば数値は改善されていく。実際、透けているのがほとんどわからないレベルまで症状を改善させた人の話も聞いたことがある。

 彼女の身体は、素人目に見てもかなりの「透明度」である事が見受けられた。彼女の顔の向こうに病室の窓越しの青い空の色が微かに浮かんでいた。

 きっと想像していた以上に彼女の病状は悪いのだろう。だから、「透明度」が高いのだ。病状が思わしくなければ絶望し、「透明度」は上がってしまう。しかし、病気が完治すれば数値は改善されるだろう。

 僕がそんな事に思いを馳せていたときだ。


「そう言えば、名前知らない」


 「スオウミキハ」は平然と言い放った。


「え?」


 母親が小さく声を上げて、僕と彼女を交互に見る。

 母親の探るような目がより一層きついものに変わる。


「そうなの?」


 母親は僕達がどこかで既に知り合っていると考えていたのだろうか。いや、常識に照らし合わせて考えれば、その方が普通なのかもしれない。どこの世界に初対面の入院中の女の子に誘われたからと言って、のこのこと病室に上がる人間が居るだろうか。


「昨日、初めて話したし」


 彼女はまるで天気の話でもする様な口調で話す。当たり前じゃない、と言わんばかりの顔だ。


「そうだったの……」


 そして、母親は僕の方を見た。その目に込められた僕に対する警戒心が一層増したような気がした。


「えっと、僕は鳥居翔と言います」


 僕は声が上ずらないように注意しながら自分の名前を告げる。まるで、彼女の家に結婚の挨拶にいくみたいじゃないか。なんでこんな事になっているんだ。結婚どころか、彼女もできた事なんてないけど。


「私は周防美樹葉です」


 彼女はにっこりと笑い、まるで下手糞な役者みたいな調子で言った。そうして、自分のベッドの枕元に貼ってあるプレートを指差す。それを見て僕は彼女の名前の漢字表記を知る。「周防美樹葉」。結構、珍しい名前だと思った。


「二人は、どういう関係なのかしら」


 終に堪りかねたのか、彼女の母親は尋ねた。

 どういう関係? こっちが知りたいくらいです。

 なんて言えるはずがない。


「昨日、私、病院を抜け出したでしょう」


 周防美樹葉は言った。

 やはり、あれは無断外出だったのか。両親が慌てて追いかけてくる訳である。院内も車椅子で移動しているのだ。やはり、安静にしていなくてはならない身体なのだろう。


「その時に私が話しかけたの」


 少女は無邪気な笑顔を浮かべていった。


「友達になりたかったから」


 母親は娘の言葉をどの様に受け止めたのだろうか。母親の顔には戸惑いが浮かんでいる様に見えた。

 そして、母親は言った。


「そうなの」


 あまり納得がいっている様子には見えなかった。怪訝な表情で、何度も僕の方をちらちらと見た。


「昨日、来て、って言ったら、本当に来てくれたんだよね!」


 周防美樹葉は満面の笑みで僕を見ている。

 親子の温度差を僕は痛いほどに感じていた。当の周防美樹葉は自分の母親の態度に気がついて居ないのだろうか。それとも、気付いていて、あえて無視しているのか。


「そうです……はい」


 僕は身体を縮こまらせて、気の抜けた返事をする他なかった。早くも来なければよかったと後悔し始めていた。


「私達は友達になったんだよね」

「……うん」


 一応、そういう事になるのだろうか。僕は曖昧に言葉を濁す。


「友達って、どんな事すればいいの?」

「え?」


 僕はまさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったので面食らった。

 どんなことをするのか、だって?


「一緒に遊んだりするんじゃないかな」


 僕は反射的に当たり障りの無い解答を返していた。


「そっか、なら遊ぼう」


 少女は母親に言う。


「オセロあったよね」

「……ええ」

「出してくれる?」


 母親はまだ戸惑っているのか、動かないでいた。


「ねえ」


 そして、再び彼女に促され、のろのろと動き始める。母親は棚の方から小さなオセロ板を取りだした。折りたためるマグネット式の物だ。


「オセロできる?」

「うん、まあ一応」


 オセロのルールくらいは流石に知っていた。


「じゃあ、やろう。これは遊んでいる事になるよね?」

「うん? なると思う……よ」


 質問の真意を測りかね、いちいち戸惑う。


「ならこれで遊べば仲良くなれるのか」


 彼女は腕を組んで、頷きながら言った。まるで自分に言い聞かせている様だった。


「じゃあ、早速……あっ」


 彼女が小さく声を上げる。


「な、何?」

「そういえば、貴方の事なんて呼んでいいの? カケルって呼んでいい?」

「……いいよ」


 僕の事を「カケル」なんて下の名前で呼ぶ人間は親以外には居なかったから、すごくこそばゆく感じる。今までの人生の中で、とりあえず「友達」というカテゴライズをした人間達は皆、僕を「鳥居」と苗字で呼んでいた。


「やった。私の事もミキハでいいからね」

「……わかった」


 ここで「ミキハ」って呼ぶべきなのかな、と一瞬思ったけど、口には出せなかった。やはり、女の子を苗字ではなく下の名前で呼ぶのは、何か気恥かしかった。


 名前を呼び合う事が、友達の印の様に思えた。

 でも、それはきっと錯覚なんだ。

 下の名前を呼び合うだけで友達になれるなら苦労はしない。それなら馴れ馴れしく女の子の名前を呼ぶチャラい男は、全ての女の子と友達になれる事になる。

 それでも、これはきっと「儀式」なんだ。

 こんな「儀式」を積み重ねて、少しずつ僕達は「友達」に近づいていくのだ。

 そんな風に考える事にした。


「さあ、やろう」


 部屋の窓につるされた風鈴がちりんと音を立てた。

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