第6話
それは、僕にとっては本当に勇気が要る事だった。
病院の正面の門から中の様子をうかがう。透明なガラス戸越しに、広い待合室が見えた。茶色のソファが規則正しく並べられている。奥の受付と見られる場所に一人、看護師さんが座っているのが見える。それ以外の人間は見受けられなかった。
そういえば、「消失」が世界に広まってから入院している患者というのは、ほとんど居なくなったらしいと聞いた事がある。重篤な疾患や怪我をした人間は、ほとんどの場合、すぐに消えてしまうからだ。
「消失」の原因は未だに不明だ。
でも、一つだけ解っているのは、「消失」は人間の精神状態に関わっているという事。
生きる意志を失った者から消えていくと言われている。
要するに「生きよう」と思えば生きられるし、「消えよう」と思えば消えるのだ。
まあ、それは口で言うほど簡単な事ではない。
「審判の日」と呼ばれるようになった「消失」が始まった日。この日に世界人口のおよそ半分が消えたと言われている。それは、次々と人々が消えていく光景を見て、絶望した人間が消え、またそれを見た人間が、という悪循環を繰り返した結果だったのだと、今は分析されている。
だから、その分析がなされてからは、誰もが「生きる意志」を持つように、と布達が出された。そのせいか、今は「消失」のスピードはだいぶ緩やかになった。
それでも、重篤な疾患がある患者に「生きる意志」を持て、というのは無理な話なのかもしれない。「消失」が発生してすぐ、重い病気をもっている人間はどんどん消えていった。
だから、あまり病院に人が居る様に感じられないのだろう。今居る入院患者も、骨折とか盲腸とか、入院は必要でも命に別状がない様な症状の者ばかりと聞く。
行けよ、と夏の太陽がじりじり僕を責め立てる。でも、この汗は暑さの為だけに流れている訳ではないだろう。
僕は緊張していた。
昨日出会った「スオウミキハ」という少女に会いに行こうとしていたのだ。
病院の前までは来たものの、最後の一歩が踏み出せずにいた。
どうして、僕がわざわざこの病院に足を運んだのか、と言われればうまく理由を言葉にする事ができない。「よかったら来て」って言われたし。それだけじゃん。いやいや、じゃあ知らないおっさんに「よかったら来て」と言われて、のこのこ病院まで会いに来るのか。来ないだろ……。
要は、僕は「スオウミキハ」という少女に……好意を抱いているのだろう。
さすがに「惚れた」とまでは言わない。一目惚れなんて少女漫画じゃあるまいに。
でも、同年代の女子と最後に会話したのが、いつなのか解らないくらい女性に縁遠い生活を送っている僕としては、あんな風に言われれば、流石に無視はできなかった。
じゃあ会いに行けばいいと思うだろう。
でも、文字通り後一歩の所まで来て、足踏みしている。
それは、僕が「スオウミキハ」に誘われる理由がまるでわからないからだ。
言うまでもなく、僕はイケメンでもなければ、スポーツができる訳でも、勉強ができる訳でもなかった。すごい特技とか珍しい趣味があるわけでもない。人に胸を張れる事なんて何も思いつかない、そんな人間だ。どうして、あの子は僕を選んだのか皆目見当がつかない。
そう考えると、からかわれてるんじゃないかとか、何か勘違いだったんじゃないかとか、いろんな思いがぐるぐると僕の中で回り続け、僕は一歩も足を踏み出せなくなった。
帰ろう。
そう考えて、僕が病院の入口に背を向けた瞬間だった。
「来てくれたんだ!」
入口に昨日の少女が居た。その後ろには、昨日見た中年の女性が立っていた。
少女は車椅子に乗っていた。
その事に、僕は動揺した。
彼女はここに入院しているのだから、どこか身体に異常があるのだろう。それは解っていた。だが、昨日、出会った時、極端に痩せている事以外は病気である事を感じさせなかったから、病状そのものはそれほど重くないのかもしれない。そう思っていた。しかし、こうして病院内すら車椅子に乗って移動しているという事は、もしかしたら想像していた以上に重い病気なのかもしれない。
「え、あ。うん」
完全に不意打ちだった事と車椅子の衝撃が合わさって、僕はうまく言葉を発する事ができない。昨日から僕はずっとこんな調子じゃないか? かっこ悪すぎる。
「ごめんなさいね、いつもこんな調子で」
彼女の隣に立っていた母親と思しき女性が言った。
うちくぼんだ目をした女性だった。女性としてはだいぶ痩せている。歳は四〇代くらいだろうか。顔立ちは整っていて美人に見える。しかし、顔に刻まれた皺とシミの多さが彼女の年齢と苦労を物語っているように思えた。
彼女の身体もまた、少し透けていた。娘ほどではないにしろ、症状は進行しているように思えた。
「え、いえ。大丈夫です」
一度深呼吸して、落ち着いてから答える。やっとまともに受け答えができた様な気がする。
「じゃあ、私の病室に遊びに来てよ」
「スオウミキハ」は無邪気に言った。それに応じて、母親が言う。
「そんな……ご迷惑でしょう」
「ご迷惑」。それは僕を気遣う言葉の様でいて、遠まわしに僕が「ご迷惑」なんだと伝えているような気がした。
「来てくれないの……?」
少女はあどけない瞳で僕を見上げていた。外見からして年齢は僕とそう変わらないのだろうが、言葉遣いや雰囲気はどこか幼い感じがした。
そんな目で見られて、僕が断われるはずがなかった。
「ご迷惑でないなら……」
僕がそう言うと、「スオウミキハ」は、ぱぁーと表情を輝かせた。表情の移り変わりが激しい子だと思う。まるで山の天気みたいだ。急に雨が降り出したと思ったら、いつの間にか晴れている。
「でしたら、どうぞ」
母親は、愛想笑いを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
僕は黙ってついていく他なかった。
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