第5話

 病院。

 大きな病気や怪我もせず、育ってきた僕は、あの大きな市民病院には、ほとんど縁がない生活を送ってきた。たまに体調を崩した時だって近所にある小さな個人病院に行っていたから。でも、そういえば、あの小さな病院はなくなってしまったんだっけ。先生が消えてしまったから。

 それでも、あの大きな市民病院に、昔、一度だけ行った事がある。

 祖父が入院していたのだ。僕が小学校に入ってすぐくらいの事だった。まだ幼かった僕は、祖父の病気が何であったのか理解してはいなかった。

 僕は祖父のお見舞いの為に、あの病院を訪れた。

 個室であったように思う。白くて大きなベッドの上に祖父は横たわっていた。

 祖父は「よく来たな」と聞き取れないくらい弱弱しい声で呟いて、後はもう何もしゃべらなかった。僕は両親から事前に指示されていたように「元気になってね」という台詞だけを無理矢理に吐き出して、後はずっと黙っていた。父と母の声だけが病室に響いていた。

 何かのチューブが、がりがりに痩せた祖父の身体に繋がっていた。たぶん、点滴か何かだったのだと思う。僕は、何故だかそれがすごく怖かった。どうしてあんなものがおじいちゃんの身体に刺さっているのだろうと思った。痛そうだなと考えたら、泣きたくなった。

 でも、男が泣くのはかっこ悪い。そんな風に考えて、そちらを見ないようにずっと床の方を見ていた。

 冷たそうな床だと思った。薄い緑色の床。つるつるとして、窓から差し込んだ光を反射していた。

 僕はそんな床をずっと見つめていた。

 するとその床もなんだか怖くなってきてしまった。

 だから、僕はどこも見たくなくて、ずっと祖父の布団のあたりだけを見つめていた。

 入院することになった時点で、たぶん、もうかなり病状は進行していたのだろう。

 入院して一月も立たないうちに祖父は死んでしまった。

 まだ「消失」なんて現象が起きる前の話だ。だから、人の最期は死しかなかった。

 でも、幼かった僕はそれを上手く理解できていなかった様に思う。祖父は死んだ、という事は教えられて知っていても、もう二度と会えないのだという事を実感できていなかったのだ。

 葬式の後、僕は純粋な疑問の気持ちで父に尋ねた。

「人は死んだらどこに行くの?」

 父は一瞬困った様な顔をした後、表情を柔らかくして言った。

「天国に行くんだよ」

 僕はそれを聞いて、「よかったな」と思った。

 だって、「天国」はすごいいいところだって、何かのアニメで見た事があったから。

 あんな管を身体につなげられる、床が冷たい場所なんかよりはずっといいや、そんな事を思った。

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