マフラー
その日、昼から出かけていた亜由美は、夜中街中を歩くには少々薄着だった。
三月とはいえ日が沈むとずいぶんと寒くなる。
そのあたりはわかっていたので、真昼向けの格好ではなかったが、まさかこんな時間までになるとは予想していなかったのだ。
その日はドイツ語研究サークルのメンバーとの夕食。
月に1、2回ほど有志で飲みに行くのもサークル活動の一環だった。
いつもなら21時にはお開きになるのだが、その日はなぜか場が不思議なほど盛り上がった。
三次会四次会とハシゴした結果、終電の時間はとっくに過ぎ、日付すら変わろうとしていた。
大きな集団は一応解散にはなったが、乗り合わせてタクシーで帰ろうと、家の方向が近いいくつかの小さな塊がそれぞれに動きはじめた。
両手を交差させ、自分の腕を抱えるように歩く亜由美は、素直に反省していた。
もう一枚中に着ておくべきだった、と。
亜由美は寒さを振り払うようにふるふると首を振った。
「使う?」
「え?」
声をかけてきたのは山田太。
名前と異なり本人の体格は華奢で、ひょろりと背が高い。
普段は二次会にも参加しない山田が、なぜかこの日は上機嫌でこんな深夜までつきあっているのを、亜由美は少々不思議に思っていた。
山田が差し出しているのは、えんじ色のマフラー。
「いいの?」
「うん」
「ダンケ」
亜由美はマフラーを受け取ると、ふわりと首に巻きつけた。
目の詰まったフェルトの独特な肌触りが気持ちいい。
冷たくなった両手もマフラーに包まらせて、亜由美はきょろっと山田のほうを向いた。
「どうしたの?今日は」
「どうしたのって?」
「いや、山田君がこんな時まで残ってるのって珍しくない?」
「んー、ああ」
山田は嬉しそうに、下を向いて笑った。
「ちょっとね、いいことがあったんだ」
「いいこと?」
「うん」
山田はジーンズのポケットに指先だけを入れて、肩をぐるりとまわす。
なんだか小さな子供のようだと思った亜由美は、少々高い位置にある山田の目を下からのぞきこむようにして尋ねた。
「聞いていい?」
「言っていい?」
山田はわざわざ顔を同じ高さまで下ろして、亜由美の様子を真似て答える。
亜由美が無言で笑うと、山田はもう少し顔を近づけて囁いた。
「僕の翻訳が商品になるんだ」
「うそ?!」
亜由美は思わず大声を出してしまった。
自分の声にさらに驚いたくらいだ。
山田の方もびっくりしたようで、ぱっと周囲を見渡した。
「だめだよ、まだ誰にも言ってないんだから!」
「ご、ごめん」
もう一度周りを見た山田は、誰も特にこちらには注意を向けていないのを確認すると、亜由美の方に向き直った。
「驚いた?」
「そりゃ」
「あはは。ま、そんなわけで」
もう一度くすっと笑うと、山田は進行方向に顔を向けた。
普段見ない笑顔がほんのりと赤いのは、アルコールの所為だけではないのだろう。
亜由美もなんだか嬉しくなって、半歩山田に近寄った。
「ねえ、ジャンルは?童話?論文?」
「ん、ゲーム」
「ゲーム?」
予想の中にまったくなかった回答に、亜由美は怪訝な顔をした。
「うん。ボードゲームのルールブック」
「へぇ」
「ボードゲームって、日本じゃあまりメジャーじゃないけど、本場のドイツではある程度認知された知的スポーツなんだよ」
熱っぽくしゃべる山田。
身振り手振りまで交えてボードゲームの面白さについて一生懸命語っている。
たいていどんな話題にもそれなりについていける亜由美だったが、その時は山田が言っている事の半分くらいしか理解できないでいた。
脳の半分くらいが別の事象を処理していたからだ。
(山田君、こんな楽しそうな顔するんだ。ふぅん……)
亜由美がちらりと山田の顔を見上ると、そこでぱちりと視線が合った。
亜由美は思わずぱっと顔をそむけてしまう。
「どうしたの?」
不安げな表情で亜由美の方を向く山田。
「……やっぱり面白くなかった?僕の話」
「え?」
「いいや。なんか僕の趣味って結構マニアック……でさ。引かれる事が多いんだよね。特に女の子には」
眉を下げ、口元は微笑んではいるが、山田の表情はとても悲しそうだった。
亜由美はいつの間にか手にしたマフラーを握り締めている事に気がつき、慌てて首を振る。
「ううん。面白くないんじゃないよ」
「そうかい?」
「うん」
お互いに二度、三度と頷きあう。
それから沈黙の数歩。
そして、今度はちゃんと山田のほうを向いて、亜由美はこう言った。
「……ごめんね、正直に言うと、ちょっと考え事してて、ちゃんと聞けてなかったのが半分。あとは確かに専門チックでわかりにくかったところが少し」
「そうかぁ。やっぱそうか」
今度は山田は笑っていた。
半ば開き直りではあったが、率直な感想をもらい、嬉しかったという部分も確かにある。
その表情を見た亜由美は、マフラーを頬に当てた。
前にはタクシー乗り場が見えてきていた。
「寒いね。今日は失敗」
「そんなこともあるよ」
「あのさ」
「なに?」
「このマフラー、このまま借りちゃっていい?」
「ああ、いいよ。どうぞ」
次のサークルのときにでも返してくれれば……
山田はそう言おうと口を開きかけた。
しかし、亜由美の謝辞の方が早かった。
「ありがと。返すの、明日でいい?」
「え?明日?」
「うん。それで、さっきのゲームの話、もう少しゆっくり聞かせて」
「え……」
「あ、それともクリーニングして返した方がいいかな?」
「いあ!」
あまりに焦って子音が抜けるほどだった。
山田は実際慌てていた。
「えっと、あの……」
「どうしよ?」
亜由美の首が傾げられる。
「じゃあ、明日、昼過ぎ、で、いい?」
「うん。ありがとね」
「うん」
二人のいる集団がタクシー乗り場に着いた。
亜由美は他の女性メンバー二人と一緒にタクシーに乗り込む。
窓からちらっと後方を見ると、こちらを向いている山田の姿が目に入った。
すぐにシートにもたれると首のマフラーに頬をうずめ、亜由美は笑っていた。
「どうしたの?亜由美」
「どうしたのって?」
「なんかにやにやして」
「ちょっとね。いいことがあったんだ」
「いいこと?」
「うん」
亜由美は隣の席の友達を見ながら、マフラーのかかった肩をぐるりと回した。
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