別段特別な何かがあるわけではなかった。

当時の誰でもがそうであるように、ただ親の期待通りに歩み、見合いをし、結ばれた二人だった。

しかし本当の危機という物は何も無い所にこそあるのかも知れない。

やはり男は仕事に生き、女は家で一人待つ。

休日も無く、いや毎日が休日であるかのような日々。



事件も事故も波すら起こらない生活の中で、女の心にだけ霧雨が降り続いていた。

しっとりと心を濡らす雨に最初は気がつかないふりも出来た。

すぐに晴れる雨ならば、その雫を楽しめるように。

けれど女の心の雨は少しずつ少しずつその勢いを増していった。

決してやまない雨だった。

男との間には厚い黒雲が立ち込めていた。



ある日女は傘を買った。

女の好きな鈴蘭の柄の傘だった。

そして女は決めていた。

もう濡れるのはやめよう、白い息は見飽きた。

次の雨の日、この傘を差してこの家を出よう。



皮肉なもので、そんな決心をすれば天は光を与え続ける。

何日も何日も続いた晴れが途切れたのは夏の終わりの蒸し暑い日だった。

窓の外を眺める。

灰色の世界が広がる。

昨日までの極彩色は何処に形を潜めたのかと思う。

そして、自分には似合いだと思う。

女は玄関に立ち、あの傘に手を伸ばした。


ジャリリリリリリリリン


不意にがなり立てる電話。

主は男。

駅まで迎えに来いという用件だった。

女は溜息と共に受話器を置く。

持って出る傘が二つになっただけだ、そう考え納得させた。



駅前の人だかりは皆人待ち顔だった。

しかし男はいつものしかめっ面をしていた。

女が傘を渡しても小さく頷くだけ。

そしてそのまま家路を歩き始める。

女はいつものように男の後ろを歩く。


雨は少し弱くなった。

女の雨は強くなった。


会話無く歩きつづける。

次の角を曲がれば家の玄関が見える。

男はきっとそのまま家へ入るだろう。

私は進もう。このまま道を歩いていこう。

男が角を曲がる。

後三歩で玄関に着く。


二歩……


一歩……


女が溜息をつく。

その時、男が歩みを止めて、呟いた。


「傘を……」

「え?」

「傘を、買ったんだな。よく……似合っている」

「……」


ガラガラ。

戸が開く。

男はずっと背を向けていた。


ガラガラ。

戸が閉まる。

擦りガラスの奥に男がいる。


それだけでよかった。

雨が少し、強くなった。


ガラガラ。

女は戸を開け、家に入った。


雨はもう、やんでいた。




それから何十年の時が流れた。

二人にはやはり何も無かった。

休日も無く、いや毎日が休日であるかのような日々。



その日、日が沈もうとしていた。

男は女の手を握り締める。

女は精一杯晴天の笑顔を見せる。


パタ、パタ……

女の手の甲に落ちる二筋の雨。


「傘が……要りますね」

「そんなもの、買ってやる。いくらでも。だから……」


その日、日が沈んだ。

女はいつまでも雨に濡れていた。

それは幸せな、温かい、雨だった。

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