ドーナッツ
「ああ、はずれたか。」
女の持って来たトレイの中を見て、男が呟いた。
「何?」
「いや、今日は新作の苺チョコにするかなと思ったから」
女のトレイには、カフェオレとシンプルなクッキードーナッツが一つ。
「なんかこっちの気分だったの」
「そ」
男は少し残念そうに返事をして、自分のブレンドに口をつけた。
ここは駅前のドーナッツショップ。
電車通勤の二人は、仕事帰りの時間をよくこの店で過ごしていた。
出逢ったのもこの席。
近くにある高校がテスト期間に突入すると、普段はさほど流行らないこの店に、突然学生が大挙して押し寄せてくる。
他の席がいっぱいになってしまっていたその日。
出入り口そばの四人掛けテーブルに座っていた女の斜め前、申し訳なさそうに男がトレイを置いた、それがきっかけだった。
二人はいつもこの席で、日常を交換していた。
仕事の愚痴やたまたま見かけた面白いもの、応援するスポーツチームの調子、近所で行われるイベントスケジュール。
興に乗ると、飲みに出ることもあった。
駅前はこういう時に便利だ。
他愛もないお互いの話を肴に、二人で二合。
それでも終電にはまだまだ余裕がある時間に解散し、それぞれの電車に乗り込んだ。
「今日は、どうしたの?」
「どうしたのって?」
女は、カフェオレのカップを両手で包むように持ち上げた。
「あー、暖かい。……いや、時間指定で呼び出すなんて珍しいと思って」
「ああ、いや。ちょっとね。大した事じゃない」
歯切れの悪い男の返事に、女は首を傾げたがすぐにいつもの笑顔に戻って言った。
「そう。まあ、いいけど」
「仕事早く終わってよかったよ」
「金曜だよ?残るつもりなんてないよ」
「だろうね」
何故だか嬉しそうに笑う男。
女は半分ほどになったカフェオレを置き、ドーナッツに手を出した。
「今は仕事も楽なシーズンだし。のんびり出来る時期はのんびりしないと」
「うん。実はこっちもなんだ」
男の言葉に女は驚いた表情を見せる。
「あれ、月末は忙しいんじゃなかったの?」
「本当はね。でも、今週末の分は、もう仕事片付けちゃったから、土日連休なんだ」
「ふーん……そう」
女はドーナッツの包み紙を皿に戻す。
「そうなんだ」
女も嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ……」
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」
二人の間に入り込むように掛けられた声。
男は、お願いしますと言ってカップを差し出した。
黒い液体で満たされ、目の前を通り過ぎていくカップに、女は少々恨めしそうな視線を送る。
「どうした?」
「……ううん。なんでも」
カフェオレの器が顔を隠すように傾けられる。
男は小さく笑うと、腕時計に目を落とした。
「おっと、時間だ。ね、外見て」
「外?」
促され、女がガラスの向こうに目を向ける。
透明な板一枚隔てた外は、寒風の吹く冬景色だった。
日の沈んだ大通りを歩くコートの人々に、足元で小さく踊る街路樹の葉。
「寒そう……だけど、これがどうかしたの?」
「もうちょっと」
女が目を戻したのは、やはり何処にでもある町の風景。
わざわざ男が見るのを促した理由が、女にはわからなかった。
その瞬間まで。
「わぁ……」
女の見ている前で景色が一変する。
洪水のように光が町に溢れ出したのだ。
街路樹は白く瞬き、その間にはサンタやトナカイの姿も見える。
時計を見るとちょうど7時。
女が男の方を見ると、男も景色を眺めていた。
「今日からだったんだよ。イルミネーション」
「そう、だから……ありがと」
「うん」
二人はしばらく外の景色を黙って見つめていた。
先に沈黙を破ったのは男のほうだった。
「それでさ、ちょっと相談なんだけど」
「ん?」
「俺、明日休みなんだ」
「うん」
「君も、明日休みだよね」
「そうよ」
「じゃさ、ウチ、来ない?」
「……え?」
「や、まあ、嫌ならいいんだけど」
「……ちょうどよかった」
「え?」
返事の意味を理解しきれないでいる男の前で、女はマフラーをつけ、コートを羽織る。
それを見て、男も帰り支度を整えた。
二人は、皿とカップが乗ったトレイをそれぞれレジそばのカウンターに置く。
「御馳走様。いいですか」
女が店員にそう告げると、店員ははいと答え、小さな箱を取り出した。
「お持ち帰り用のハニーチョコストロベリーです。ありがとうございました」
笑顔で受け取る女。
不思議そうにその姿を眺める男に、女はこう言った。
「あたってたよ。予想」
「うん」
「でも、新しい味だから、新しい場所で試したかったの」
男はコートのポケットに入れていた左手を出し、女の右手を捕まえる。
「……なるほど、それはちょうどよかった」
「うん」
電飾で煌く街を駅に向かってあるく二人の間で、ドーナッツショップの袋が楽しげに揺れていた。
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