風の伝え

ドルフィン

第1話

 真夏の太陽が容赦なく照りつける。田圃の稲が、陽炎で揺れて見える。

 大学四年の真子は、一年ぶりに故郷に戻ってきた。真子が田舎に帰って来るのは、夏休みだけだ。他の休みは勉強やらバイトやら旅行に行って、なかなか戻れない。

 否、本当は理由をつけて、帰ろうとしないのかもしれない。三年前のある出来事があって以来、真子は田舎に戻りたいと思わなくなった。両親は寂しがるし、真子は実家には帰りたいと思っているのだが……。

 まわりを取り囲む山々から、風が吹き下りてきて、真子の白いワンピースの裾をふわりと揺らせた。山からセミの声が響き、上空からは烏の鳴き声が聞こえる。真子は風に帽子を飛ばされないよう片手で押さえ、入道雲の浮かぶ空を見上げた。烏がカアカアと鳴きながら、空を横切っていった。

 立ち止まった真子は、烏の行方をぼんやりと目で追う。家にはさっき到着したばかりだ。真子は帰って来るやいなや、家を出てきた。田舎に帰ると、いつも真っ先に行く場所がある。

 今年も行かなくては……。真子は誘われるようにその場所に向かって歩き出した。



 子供の頃からよく遊びに行っていた村の神社は、長い石段の上に建っている。小さな山の上にある神社のあたりは、ちょうど日陰になり真夏の日も届かない。神社の裏山には川も流れていて、強い日差しで火照った体を冷やすには最適の場所だ。

 今も昔と変わらず、神社は存在していた。

 真子は、百段以上も続く石段の下に立ち、上を見上げた。今年も彼は来ているだろうか? 真子がそう思った時、神社の裏山の方からさわさわと風が起こり、木々の葉を揺らした。

ヒューと音を立てる風、山で鳴くセミの声が真子の耳に響く。

「……」

 石段を上がりきった所に、一人の青年の姿が現れた。今年も彼は来ていた。

「真子ー!」

 彼は大きく手を振り、真子を見下ろして笑顔を向ける。真子の幼なじみの啓だ。真子とは物心ついた頃から一緒に遊んでいた。小さな村には同じ年の遊び相手がほとんどいなくて、近所で一緒に遊べる相手と言えば、啓しかいなかった。 真子は大学に進学し、村を出ていったが、啓は高校卒業と同時に家の農業を手伝っていた。

 真子は啓に軽く手を振る。

「やっぱり、待っててくれたのね」

 真子は長い石段を良い段一段、ゆっくりと上がっていった。



 ようやく石段を登り切った真子は、改めて啓に目を向ける。

「啓は、ちっとも変わらないね」

「え? そうかな? 真子も変わってないよ」

 啓はじっと真子を見つめる。

「いや、真子は変わったね。去年よりまた大人っぽくなった」

「人間は少しずつ変わっていくものよ……特に女はね」

 真子は薄く笑って、神社の方へ歩いていく。啓も遅れてついてきた。

 ガラガラッと神社の鈴を鳴らし、お賽銭を入れて、手を合わす。

「何を願ってたの?」

 長い間手をあわせ目を瞑っていた真子に、啓は尋ねる。

「……色んなこと。取り敢えず、来年無事に就職出来ますようにって」

「そうか、真子は就職するんだよな……もちろん、都会に就職するんだろ?」

「ええ、この村には就職口なんてないでしょ」

「それもそうだな……」

 啓は寂しげに呟く。

「けど、たまには田舎にも帰って来いよ。俺はいつも待っているからな」

「うん……」

 真子は複雑な表情で頷く。

「今度は啓の家にお邪魔するわ」

 涼しい風が二人の間を吹き抜ける。神社のあたりは、下よりだいぶ気温が低くて心地良い。

「そうだな。でも、俺はこの場所が好きなんだ。ここで待っていると、真子が必ず来てくれる気がする」

 啓は微笑む。

「裏山に行ってみよう。小川のとこに行けば、ここよりもっと涼しいぜ」

「うん」



 啓のことを、自分はどう思っているんだろう? 裏山に流れる小さな小川を見つめながら、真子はふと考える。小さな頃からずっと一緒だったから、好きとか恋愛感情を持って啓のことを意識したことがない。決して嫌いではなく、啓は血の繋がったきょうだいのような存在だった。異性の大親友というところだろうか? でも、啓は?

「真子、どうかした?」

 小川のほとりに腰を下ろし、ぼんやりとしていた真子に啓が声をかける。

「え?……ううん、別に」

「そうか? なんか今日は元気ないな」

 啓は真子の側に腰を下ろし、真子の横顔をチラリと見る。小さな小川のせせらぎの音が聞こえ、川の水がキラキラと反射して光る。二人はしばらく黙ったまま、じっと小川の流れを見つめていた。

「真子……」

「啓……」

 二人はほぼ同時に口を開き、顔を見合わせて微笑んだ。

「何だ?」

「啓からどうぞ」

 真子は小さく首を振り呟く

「……えーと」

 啓は真子から視線を外し、また小川の方を見つめる。

「俺さ……ずっと前から思っていたことなんだけど」

 啓は言葉を切り、もう一度真子を見る。

「俺、真子のこと好きだ。直ぐにとは言わないけど、いつかこの村に帰って来てほしい。そして、俺と──」

「啓」

 真子は啓の言葉を途中でさえぎり、じっと啓を見つめる。

「……真子は、俺のこと嫌いか? それともこの村では暮らしたくない? それなら、俺も都会に出ていってもいい」

 真剣な顔で告げる啓。真子は首を大きく横に振る。

「違うの! そんなことじゃないの!」

 ついきつい口調になり、真子の瞳が潤む。

「啓のことは嫌いじゃない! けど……」

「じゃあ、何だよ?……」

 その時、裏山からそよそよと微かに風が吹き下りてくる。微風は二人を優しく包むように舞い、真子の頬を撫でた。真子の瞳から、ポタリと一粒涙が零れる。

「……いい加減に気付きなさいよ……」

 真子は真っ直ぐに啓を見つめ、低く呟いた。

「……何?」

 きょとんとした顔の啓に、真子は一呼吸おいて答える。

「啓、あなたはもう死んでいるのよ!」

「死んでる?……」

 真子の言葉に、啓は唖然とする。

「何? 冗談?」

「……」

 笑おうとした啓だが、真子は真面目な顔をしている。

「馬鹿な、嘘だろ? だって──」

 真子はサッと立ち上がると、裏山を下り神社の方へと駆けていく。

「真子!」

 啓は慌てて真子を追いかける。



 真子は神社の石段の上に立ち、肩で息をしながら、じっと下を見下ろしていた。

「どういうことだよ? 俺が死んでいるなんて、俺はちゃんとここにいるじゃないか」

「啓、あなたは三年前この石段から落ちて死んだ……」

 低い声で真子は続ける。

「私が、私が、あなたを突き落とした……」

「えっ?」

「……わざとじゃなかったのよ。あなたを殺そうなんて思ってもいなかった。けど」

 真子は涙に濡れた顔で、啓を真っ直ぐ見つめる。

「大学辞めて田舎に帰って来いって、啓がしつこく言うから……大学一年の夏、ようやく学校にも慣れて友達や彼も出来たのに、あなたは私に田舎に戻って結婚しようなんて言うから……」

「……」

 啓は黙ったまま真子を見る。

「帰ろうとした私を追いかけて来て、あなたは私の肩を掴んだ。私はあなたの手を振り払って、この石段まで走って逃げて来た。なのに、あなたはしつこくまた私に迫って来て……だから、私は思いっきりあなたを突き飛ばしたわ。そしたら……」

 真子は恐る恐る、石段の下を覗き見る。石段の上からバランスを崩して落下する啓。まるで、マネキン人形が落ちていくみたいに、何度も強く石段にぶつかりながら、手足をブラブラ揺らせて踊るように落ちていく。そして、ねじれて折れ曲がった体は、アッという間に下の地面に打ち付けられた。真子は、あの日のことを鮮明に思い出す。

「あっ!……」

 啓は驚きの声をあげた。長い石段の真下には、三年前のあの時のように、血まみれで横たわる啓の姿があった。

「……啓、私、あなたのこと嫌いじゃなかったのよ。いつまでも仲の良いきょうだいのような友達でいたかったの」

「……」

 啓は黙ったまま、自分の幻の姿を見つめていた。さわさわっと、風が吹き起こる。セミの鳴き声が激しく耳に響く。

「……そうか……」

 力無く啓は、真子を見て笑った。

「馬鹿だな、俺……自分が死んでることにも気付かないなんて。どうりで、神社でしか真子に会えなかった訳だ……」

「啓……」

「……真子が気にすることないさ。俺、最低だ。真子のは正当防衛ってやつだよな……」

 啓は肩を落とし俯く。

「俺が勝手に真子を好きになっていただけ。真子も俺のことが好きだと、勘違いしていただけだな……」

 啓の姿が次第に薄れていく。

「就職頑張れよ……」

「啓! 待って! ごめんなさい!」

「……俺達、ずっと子供のままでいたかったな……」

「啓!」

 啓は悲しげな笑みをたたえたまま、静かに消えていった。真子はその場にうずくまり、声を上げて泣き出す。

 夏の日。セミの鳴き声。大声ではしゃぎながら神社で遊び回った子供時代。目を瞑れば、懐かしい光景が瞼の奥に鮮明に蘇る。もう二度と、あの頃には戻れない。時間だけが矢のように過ぎ去り、心だけが置いてけぼりで立ち止まっている。

 全てのことは時間の中に消え去っていっても、神社は何事もなかったかのように、そこに建ち続けている。永遠に……。微かに吹く風の中、真子はいつまでも声を上げて泣き続けた

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